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2016年08月25日10:36

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「若者の貧困」が直面している問題とはなにか

 「若者の貧困」を扱った報道について、このところ批判や議論をよく耳にする。論点は概ねふたつに分けられていて、ひとつは「この女子生徒、及びその家庭は貧困と呼べるのか」ということ。もうひとつは、「NHKの報道姿勢は適切であったか」ということだ。

 「この女子生徒、及びその家庭は貧困と呼べるのか」については、彼女の持ち物などから趣味に多額のお金を使っているではないか、という批判があった。持ち物の値段から、果ては彼女のツイッターアカウントまで割り出す執拗さが異様であることは言うまでもない。私はそこまでしてこの生徒を叩くことそのものが理解できない。

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 ところで、「趣味に多額のお金をかけている」ということが「貧困に当たらない」といえるのか。これについても、「貧困ではないとは言い切れない」と考える。
 たとえば私は、一か月の書籍代が一万円以上かかっている。その一方で、スーパーの値引きシールが貼られる時間を狙って買い物に出るのが習慣化している。
 一か月に一万円以上、本を買うというのは一般的にみてもお金をかけているといえるだろう。他方、半額シールのためにスーパーをハシゴするのは裕福な人がやることではない。

 もちろん「だから私も貧困」というつもりはない。ここで言いたいのは、人によってお金をかけているところは異なるということだ。そして娯楽すら抑制されるような暮らしというのは、そもそも生活自体が成り立たないのではないだろうか。多少なりとも暮らしに余剰がないと、たとえば自分や家族が病気や怪我をしたとき、電気や水道が故障したとき、たちまち窮乏してしまうことになるからだ。


 ここで取り上げられたテーマは「若者の貧困」である。それは今日、明日に何が買えるとかいうレベルではなく、「専門性の高い学校へ進む際、学費や生活費について持続可能な水準を満たしているのか」ということのほうに目を向けなければいけない。趣味のグッズやコンサートのチケットは、一時的な収入があれば何とか工面できる。

 けれども、学費や授業で必要な道具類、また場合によっては親元から離れて暮らさなければならない状況においてかかる費用は、桁が全く違ってくる。学費だけで数十万から百万円単位、それらが毎年、数百万円の負担として家計にのしかかるのだ。
 将来、就きたい仕事のために身につけるスキル、それが得られない状況が「若者の貧困」なのであって、娯楽に使うお金が云々というのは本質からはかけ離れた批判である。

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 次に、「NHKの報道姿勢は適切であったか」ということについて考えてみたい。結果論からいっても、それが不適切だったことは明らかだ。ではどういう切り口で視聴者に訴えるべきだったのだろうか。

 まず問題なのは、「若者の貧困」について、それがプライバシーに抵触しやすいものであるにもかかわらず、女子生徒を矢面に立たせたところだろう。なるほど、特定の人の生活に焦点を当てることによって、その実態がより浮き彫りとなることは否定しない。取材された女子生徒の側も、それを承知で受けた話だったかもしれない。

 けれども、たとえ女子生徒がそれを望んだものであったとしても、彼女が未成年であり、「若者の貧困」をテーマに報道する内容の重さ、そしてその反響も考えれば、キャスターや取材した記者が前面に立つような、もっと違う構成にすべきだった。実際、経済的な理由から希望する学校に行けないということが、「若者の貧困」の本質として番組でも取り上げられていたにもかかわらず、その持ち物ばかりに注目が集まっていることから、番組内容としては失敗だったというほかない。

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 私は「貧困」を社会的問題として、改善していこうとするのであれば、他者から同情を誘うようなやり方や、倫理観に問うような方法は、ときに目的を阻害する要因になりかねないものと考えている。「貧困」は、それ自体をなくしていかなければいけないものであって、「貧しいけれど、ひたむきに努力している人」だから救いの手を差し伸べるというものではない。

 極端な話、酒やギャンブル、異性関係で身持ちを崩したような、どうしようもないケースであっても、その人には最低限の暮らしを保障してあげなければならないというのが「貧困」解消の第一義であると考える。
 努力して、そこから抜け出せられるのであれば、助力して機会を提供する。そうした意欲がみられないのであれば、そうなっている原因を調査し、必要であれば治療、あるいは身持ちを崩さないような環境においてあげるようにする。

 そうではなく、倫理観を前面に出して「貧困」を捉えようとすれば、努力や節約の度合いが救済へのモノサシとなってしまう。結果的にそれは「貧困がさらに貧困を招く」といったスパイラルに陥りやすく、個々人の事情はともかくとして、社会全体において「貧困」は解消するどころか、かえって悪化してしまうことになる。


 今回の報道だけでなく、私たちはテレビや雑誌を通じて、同情や倫理観に訴えた「貧困」問題に慣らされてしまっている。そちらのほうが感情移入しやすいし、関心も向くだろう。そのとっかかり、導入としてはそうした切り口も悪くはないのかもしれない。

 けれども、「格差」や「貧困」について、もっと理解しようとすれば、そしてその悪化を真剣に防ごうとするには、「貧困」に陥った原因やその度合いをあれこれ詮索しても意味がない。むしろ社会全体をボトムアップさせる方向で議論を進め、施策につなげていかなければ、決して改善には向かわない。

 「浪費」や「節約」は個人の問題であるのに対して、「格差」や「貧困」は社会的な構造上の問題である。それらを混同させた議論にも、あまり実りがあるとは思えない。

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NHK番組「貧困JK」批判相次ぐ
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=4158858
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