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2018年07月19日20:25

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秘伝の記事に違和感

一昨日、久しぶりに雑誌秘伝2018年8月号を買いました。

で、特集である「船越義珍と松濤館空手」を読んでびっくりです。

「義珍の拳」の作者である今野敏先生にインタビューする部分に違和感があります。


「義珍は沖縄へは帰れないですよ。頑固党が怖くて。沖縄の手をヤマトの奴らに教えた裏切り者ですから」と書かれてありました。

はぁ・・・・って感じですね。


頑固党とは、琉球が日本に併合されることに関して、清国と連携して独立を保とうとする保守派のことです。
それに反して、日本に併合されることをよしとする開花党といいます。

このことは、船越先生の著書である「空手道一路」の最初の部分に書いてあります。

船越先生の実家は頑固党派だったので20歳になるまで髷を落とせず、医学校に進学することができなかったことが書かれています。

その頑固党は、日清戦争(1894年:明治27年から1895年:明治28年)で日本が清国に勝ったことで、頑固党のリーダーが清国に亡命(脱清人)および客死したことで自然に消滅していきました。

船越先生が、本土で空手を教え始めたのは大正11年(1922年)からであり、頑固党そのものが消滅しており、恐れる必要はありません。

そもそも、船越先生の実家が頑固党でしたしね。


また、「沖縄の手をヤマトの奴らに教えた裏切り者ですから」とも書かれています。

では、同じように本土で空手を教えた本部朝基先生、宮城長順先生、摩文仁賢和先生なども裏切り者だったのでしょうか?

そもそも船越先生の師の一人である糸洲安恒先生の糸洲十訓(明治41年)には、「右十ケ條の旨意を以て師範中学校に於て練習致させ前途師範を卒業各地方学校へ教鞭を採るの際には細敷御示論各地方小学校に於て精密教授致させ候へば十年以内には全国一般へ流布致し本県人民の為而己ならず軍人社会の一助にも相成可申哉と筆記して備高覧候也」と書いてあります。

要するに、糸洲先生自身が空手を日本全国に広めようとしていました。

師の遺訓を実行に移した船越先生が裏切り者とは、いったい何なのでしょうか。

本土で空手を教えるにあたり、船越先生は、沖縄に手紙を書いて相談もしていますしね。

これも空手道一路に書いてあります。



さて、「船越先生が沖縄に帰れなかった」とする前提条件が、そもそも間違っています。

船越先生は、大正11年以降一度だけ沖縄に帰っています。

これは沖縄でも新聞で報道され、地元で大歓迎されていました。

どこでその資料を見たのか忘れてしまいましたが、その記事を読んだ記憶があります。


今回の秘伝の記事は、ちょっと雑でしたね。
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