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mixiユーザー(id:2145604)

2007年05月23日15:56

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平安京には注連縄が貼り廻らされていた

日記にトンデモ説でも上げてみます。
これが否定されるなら尚更嬉しい(笑)−こちらの知識が増しますから…

で、第一弾は平安京結界説
今までも平安京の艮[うしとら]と坤[ひつじさる]の神社を設けて…とか将軍塚などで怨霊・病魔怪異から平安京・平安宮を守ったという説は多々あります。

そうではなく、平安京そのものが平安宮を守る結界域として設けられ それを当時の人々は意識していたのではないか…という説です。

平安京は当時の唐の都・長安城(および副都・洛陽城)を模して作られたとされています。そして長安城・洛陽城にあり平安京に無いものとして城壁がよく挙げられる。もっとも羅城門の東西40丈程は塀があったらしいとされています。

でもその他の九条大路の部分と一条大路・西京極大路・東京極大路にはなにもなかったかあっても人が跨げる盛り土があった程度とされています。でもその盛り土が実は結界を成していたのではないでしょうか?別に盛り土でなくてもいいのです、今でも神聖な域はロープ貼って紙を垂らせば…注連縄となってほら結界が出来上がります(^^)

当時もそんなものが羅城周りにあったのでは との妄想です。
結界ゆえに、又武宗の会昌の廃仏という最新流行思想も相まって平安京には仏教伽藍が東寺・西寺の他は建てられなかったとも考えられます。−というかそっちの方が「南都六宗にあった政治介入を排斥する為に」よりしっくりきます。
なにせ当時は古代…宗教と政治は未分化であったろうから仏教を排斥するなら他の宗教−神道なり道教が浸透するはずですが、道教の分派である陰陽道があった程度です。

この宗教的な結界ゆえに平安京の域意識は右京が崩れ去った摂関期以降でも生きていて四円寺の諸寺は西京極大路の西や一条大路の北に建てられ、藤原道長の法成寺は水害の恐れが多大にある東京極大路と鴨川の間に建てられています。この道長ですら禁畏を守ったということは人間の作った法律令によるものではなく宗教的な禁畏であることを伺わせられます。

この平安京の外にしか寺院伽藍を建てない禁畏はその後も続き院政期には白河に六勝寺の諸寺、平家は三十三間堂や六波羅蜜寺を鴨東に建てていますし、なにより待賢門院の法金剛院は鎌倉初期になっても西京極大路の西に建てられています。

伽藍のある寺院が平安京内に建てられるのは南北朝の妙心寺と本圀寺…遷都より5世紀後になりますし、仏塔を含む伽藍は相国寺が一条よりも北であることから現在に至るまで建てられていません。
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コメント

  • mixiユーザー

    mixiユーザー2007年05月23日 17:33
     お久しぶりです。(^^)

     興味深く読ませていただきました。盛り土が結界だったというのは面白いですね。

     道長がなぜ、あんな所に法性寺を建てたのかも納得です。権力者でもどうにもならない、宗教とか、恐れとかがあったのでしょうね。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2007年05月24日 00:23
    〉えりかさん
    》道長がなぜ、あんな所に法性寺を建てたのかも納得です。権力者でもどうにもならない、宗教とか、恐れとかがあったのでしょうね。

    僕の妄想であってなんら裏づけのないハナシであることをお忘れなく....(^^)

    でも宗教的な忌諱がなければ法成寺は平安京内に建てたであろうしそれが出来るだけの権力と無謀さを道長は持っていました。法成寺を建てるときに豊楽殿だったか大極殿の礎石や建材を相当量持ち出しています。
    でも法成寺は鴨川に近すぎます。堤防も満足に無かった時代に河川より百メートルそこそこしか離れていない地点にあることは洪水を無視しているとしか思えません。しかも2つの河川の合流点より下流で数百メートルも離れていない箇所なのです。「賽の目と山法師」と並んでどうにもならないものと評されたのは、その百年後だったかな?

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