国土地理院の空中写真で京都太秦の蛇塚古墳を時系列に並べてみた。
1946年撮影
1961年撮影
1975年撮影
2008年撮影
現在でも前方後円墳の形に民家が建ち並んでいることが容易にわかる。
そしてそれが75年の写真を見ると付近より先に建っていることがわかり、
61年の白黒写真では田畑ではなさそうにも見える。
しかし46年の写真では畝らしきものも見えるので耕作地の可能性はあるが
前方後円墳の輪郭は遥か7世紀から保たれていた様子。
でも封土が失われているのに輪郭が保たれていた不思議はある。
秦川勝の墓との説もありますが、子孫が政争に敗れ宗家が絶滅した石舞台の蘇我氏と違い
子孫が山背の地に遷都で王宮を迎えることが出来た秦氏で封土が【何故に】失われたのか?
そして付近の天塚・清水山・垂箕山の古墳は封土は失われていない。もとい!清水山は昭和の中頃まで失われていなかった。横に流れる川は西高瀬川で江戸末期の掘削。
この違いは何故なのか?輪郭の保持よりも不思議な気がする。
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