京都大学防災研究所
http://www.dpri.kyoto-u.ac.jp/nenpo/no47/nenpo47b.html 「防災研究所 年報47号 2004」
「京都の水辺の歴史的変遷と都市防災に関する研究」
http://www.dpri.kyoto-u.ac.jp/nenpo/no47/47b0/a47b0t01.pdfにあった画像Fig1
の河川部分をトレースして、それに平安京推定図を重ね合わせてみた。
すると、中央□印し【実は神泉苑】を通る推定河川が、平安京屋敷跡を直線状に繋いで流れていたことに気づいた。
【花山院】-【高陽院】-【冷泉院】-【神泉苑】-【朱雀院】-【西宮殿】
偶然だろうか?
もちろん、この河川の流れを推定した方がこれらの屋敷跡を繋いで線を引いたとも考えられなくもない。でもこれらの屋敷はほぼ一直線に列ぶことも確かである。
中央に朱雀大路という目立つ道路が鋭角で交わるために、アスニーの平安京模型を眺めていても気づき辛い
でも、この図(2013年9月4日の日記掲載図)
を見てみても神泉苑から流れ出る河川跡ではなく、朱雀院-西宮殿から始まる河川跡の角度で上流に延長線を引くと全てベルトラインに納まる。(赤い破線)
高陽院と西宮殿では時代は確かに違うが、このベルトラインには後の時代には二条城はもちろん、京都所司代、京都守護職(京都府庁)、禁裏、足利義昭二条城(武衛陣)、堀河院、陽成院、閑院、土御門第などなど内裏と室町花の御所以外の京都政治中枢の多数があった。
『王家の谷』ならぬ『殿上人の河川跡』なのかも知れない。
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