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2012年08月10日09:57

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目に見えない羅城−平安京

先日、平安京創生館で長宗先生から長岡京で出土した人面土器が長岡京域の隅の地点だったと聞きびっくり!
昨年だったか考古資料館で人面の人気投票をしていたことは新聞で知っていたが、京域の隅から出土したことは見逃していた(^^;
続けて長宗先生のおはなしによると、四隅のうち残りの2ヶ所のうち東北と西南の隅からも祭祀跡が見つかっているとか…

これは延喜式に書かれている「道饗祭」か「京城四隅疫神祭」と同じものか、その前身の祭祀跡だろう。その「道饗祭」か「京城四隅疫神祭」について同志社女子大の山田教授は『城壁なき要塞都市〜平安京の境界祭祀』
http://homepage1.nifty.com/heiankyo/kuni/yomo04.html
で、城壁こそ無かったが天皇を邪神から守るため、平安京への侵入路の東に蝉丸神社、南に石清水八幡宮、西に首塚大明神や篠八幡宮を配し第一次防衛線として第二次防衛線として『京の四隅でおこなわれた「道饗祭」という祭りであった。この祭りによって、京全体を目にみえない防壁で包みこみ、侵入する鬼神を撃退しようというわけである』と記されている。

でも、防衛線は砦のような点である神社や祭祀場ではなく、ラインとして配置されていたのではないだろうか?「道饗祭」か「京城四隅疫神祭」といった祭祀が京域の「道」で営まれたことに興味を引く。
網野善彦氏によると中世前期では(はっきりとは書かれていないが古代から)道は聖なる場所で日常の世界・俗界から離れた場所として認識されていたと書かれている。
「日本の歴史をよみなおす」

そのような聖なる場所「道」は2ヶ所の地点を繋ぐだけでなく、道の両側を隔て区分する機能も併せ持っていた。【京の両側町の成立は中世で坊条制では大路をへだてた向かいは別の坊なり条であったことを注目したい】また幾何学的な文様は洋の東西を問わず魔除けとしてられていた。中世の等高線に沿った道と違い古代帝国の道は地面の高低差を無視し直線路であった。

そのような聖なるものである道で、尚且つ直線的なものが「道饗祭」か「京城四隅疫神祭」の祭場を結んでいる。これ自身が魔除けとして機能していたのではないだろうか?故に京域周囲には羅城は不要だったのではなかろうか?平安京に限って言えば他の大路(8丈)より広い10丈なり12丈で一条大路・九条大路・東京極大路・西京極大路は計画されていた。人ではなく魔物を防ぐには物理的障害物は必要はない。ただ、人も魔物も防ぐには防壁が必要であり、宮域や内裏には築地塀が廻らされた。

藤原京・平城京・恭仁京・長岡京・平安京すべて京域が広すぎる。これも京域が大宮人や舎人とその家人を住まわすことを目的に定めた訳ではなく、大極殿を中心とした官舎や内裏を魑魅魍魎から護る目に見えない羅城−一条大路・九条大路・東京極大路・西京極大路と目に見える壁−大内裏築地塀の間に置かれたバッファーとして計画されたと考えてみるのも面白いかも知れない。
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