先日の日記「1944年 U.S.ARMY作成の京都地図」
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1188752738&owner_id=2145604
で触れていた天神川を見てみた。
上流は殆ど変わらず
丸太町を越えたあたりで紙屋川は西へ曲がり西大路を越える。ここまでは同じ
太子道で西大路を渡りスグに南行−現佐井通あたり−西京高あたりでやや西へ向かい1路西を御池まで…
これで、佐井通りが道祖大路の直系の後継路でないことが判る。
現島津の中央−地図では西端から三条を西行−三条西小路で南へ向う。
どうやら現西高瀬川の西小路−佐井間は旧天神川流路では?との疑問も湧く。
ただ、西行きと東行きの違いが気にはなるが(笑)
西小路を南行−新京阪の土手に突き当たり蛇行 顕正寺を巻き込むように流れている。このやや西に道が2つに分かれている−このあたりが現ハナ−西院追分町の地名由来がわかる。
新京阪を渡った後はやや西を南行 西京極中学の東側あたりか? 地図をよくみると西高瀬川は西大路の手前で南へ折れている。また五条通りは影かたちがない…
七条通りで東へ北小路あたりで西へ向った西高瀬川と月読橋で合流 stoneと記入されているのが月読橋か? たしかにここらに合流する流れがある。
また三条の西大路−西小路、七条の西大路−大門町の道幅が広いのは天神川の跡だからか?とも思えてきた。西洞院の蛸薬師−四条が西洞院川の故に不必要に道幅が広いように…
ただ、七条の大門町から南にコンクリート3面の旧天神川が見当たらない。ひょっとすると付け替えの際に一時的に出来た流路なのだろうか?
あとはほぼ西高瀬川流路を流れている。ただ一端東に向かいトヨタの脇から西大路を越え洛陽工業の南を流れ九条の市電を跨いでいる。現洛南ジャスコの東を流れていた様子。
御土居の跡が町名の区切りとなっていたが、天神川の跡は道路の様子である。顕正寺あたりと佐井通りの西京高校北端あたりは一度、訪れてみるか。
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