霜月たかなか氏の「コミックマーケット創世記」は、読むたびに思い出す事項も多く度々読み耽っているのだがチト気になることが出てきたので綴ってみた。
簡単に言うと彼(原田央男氏)と僕との人脈に対する姿勢の違いなのだが…彼が漫画大会で「後先も考えずに彼らの間を回り、紙にそれぞれの連絡先を書きつけてもらう」(p62)という行動を採っていたのに対し、僕は知人に感想を一筆入れて貰っていた。つまり積極的に知人を増やし人脈を形成すると言う意思が殆ど無かったと思う。
別に人見知りしていたわけではなく知らない人へでもかなり積極的に話し掛けていたことは覚えているが、その人とはもう2度と遭えなくても構わないという気で話し掛けていたと思う。マイミクのCalciさん名付けたサロン派なるものを当時から自認していたので、その場での会話の盛り上がりが最も重要視していたようだ。もちろん知人を場に引きづり込むことは良くやっていたし、引きづり込んだ知人が人脈を形成して新たなムーブメントが起こることを期待していたフシは多々ある。【亜庭じゅん氏を漫画大会に誘ったり、井上健氏を迷宮会合に誘った件は「コミケ創世記」にも記述されている】
では人脈はどうして作っていったかと言えば「その場にいた」以外の共通項を求めていたようだ。高宮成河氏にしても某大学のデザインにいると最初の出会いで言わなければ翌日に彼のゼミ室を訪れ無かったであろうし、「漫画ジャーナル」に参加してなかったかもしれない。原田氏や他のCPSの面々にしてもダイナビジョン関西上映会の後での会話で萩尾望都やマンガ以外のハナシで盛り上がらなかったたら…とも思える。第3回の漫画大会の前後に道玄坂にあった「ノーブル」という喫茶店で、その面々とは出会っているのだが特に連絡先も聞かずに別れている。
亜庭じゅん氏との最初の出会いは実は「ぐらこん」の関西集会なのだが、《決して間違った内容ではなかった。水野英子の「ファイヤー!」を駄作と断じ、ラブ・コメを称揚するのは、当時としては画期的な斬新さをもっていた。
共感しないと云えば嘘になる。》なる感想を当時もったらしい。こちらも続けて語り合いたい人だとは思った程、手応えのある応答をアニジュンは返してきたが互いに連絡先を交換することは無かった。2年後に毎晩のように下宿に訪れマンガ論を交わすとは思ってもいなかった。
そういった人脈を積極的に構築する人によって状況は切り広げられるのかなぁ と思った次第。
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