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2017年03月20日10:33

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亀岡市・穴太城跡攻城レポ日記

京都府亀岡市にある穴太城跡を攻めてきました。
穴太城跡は京都府亀岡市曽我部町穴太地区にあり、西国三十三か所二十一番で知られる穴太寺の近く、木幡神社の背後の山にあります。
穴太城跡は応仁・文明の乱の頃、余部城主だった野田泰忠が巻き返しを図った城と古文書にあり、その頃からの城のようです。
戦国時代、丹波八木城主の内藤宗勝の家臣だった赤沢加賀守義政が城主だったとの記録があり、笑路城の中沢氏と婚姻関係にあったと伝えます。
このように、口丹波・南丹波の国人衆は互いに協力関係を持っていたのかもしれませんが、
明智光秀の丹波攻略戦により瓦解したのでしょう。
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穴太城跡は木幡神社の背後の山に展開しています。木幡神社の駐車場に車を置かせてもらい神社へ。本殿で参拝して山に入らせてもらうよう願い出ます。
私は城跡の登り口等に神社があれば必ず参拝し、立ち入りの許しと挨拶をいたします。
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穴太城跡の進入口は本殿奥のお稲荷さんの背後から登ります。
もちろんここでも参拝。
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お稲荷さんの背後すぐが穴太城跡の城域です。
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※京都府教育委員会「京都府中世城館調査報告書」より引用・加筆。
縄張図,硫媾蝓7蠡西訐廚錬繊Γ臓Γ辰3つのエリアに分かれていますが、踏査した感じではB区とC区は連続しているように思えました。
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軍圓愡蠅訃詁擦力討砲△辰慎い砲覆訐仞僂漾F貭タ洵△硫媾蝓
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A区軍圈F貭タ洵の箇所。
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A区軍圓鉢恭圓隆屬寮擺漾
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A区恭堙譴療變檗F貭タ洵い硫媾蝓
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A区恭圈F貭タ洵イ硫媾蝓
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A区騎圓遼未砲△觚弩ですが、縄張図でも書かれているとおり、食い違い虎口というか桝形というかそんな風に見えました。縄張図Δ硫媾蝓8秀による攻略後に改修されたのでしょうか?
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A区騎垈爾砲△觜曲輪群。縄張図Г硫媾蝓
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A区騎埓召砲和腟模な土塁があります。縄張図┐硫媾蝓
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南から。食い違い虎口の存在や大土塁、そしてその西の大きな堀切の存在からやはり騎圓A区の主郭で恭圓副郭だったのでしょう。
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土塁上からA区騎圓鯔召燹F貭タ洵の箇所。
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土塁の南側には堀切側へ至る道があります。これは西側から騎圓悗隼蠅觚弩だったのでしょう。
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西の堀切には土橋がありました。縄張図の箇所。
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そしてその土橋がかかる堀切。縄張図の箇所。
穴太城跡でも最大規模の堀切です。
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堀切を越えた先は平坦面が続いています。縄張図の箇所。
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その平坦面の北側に一段高い場所があり、験圓魴狙しています。縄張図の箇所。
縄張図を見ると特異な縄張をしていますが、実はこの験圓叛召琉戝聞發ど分は前方後円墳らしく、古墳を利用して曲輪を作っているようです。
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縄張図の箇所も一段高くされており、恐らく古墳を利用したものでしょう。
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の箇所を過ぎるとA区の西端の堀切に至ります。その南端に土橋がかかってました。
縄張図の箇所。
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A区西端の堀切。縄張図阿硫媾蝓Cを利用した堀切で幅が割と広いです。

A区西端の堀切からB区へは比高差20mくらい斜面を登っていくことになりますが、その途中には曲輪等の城の遺構は見受けられず、A区とB区は連続性はありません。
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尾根を登りきるとB区の城域に至ります。最初に至るのは最下段をぐるりと取り巻く帯曲輪。
縄張図韻硫媾蝓
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このようにほぼB区の城域を囲むように韻龍蔑悗和海い討い泙后
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韻硫媾蠅琉譴直紊龍蔑悄F貭タ洵欧硫媾蝓B区の副郭的なものと思われます。
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欧龍蔑悗遼未墨β罎里茲Δ聞發泙蠅連続して続いてます。縄張図海硫媾蝓
ここがB区の主郭に当たるものと思われます。もしかしたらこれも古墳を利用したものかもしれません。
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海硫媾蠅寮沼Δ琉貳峭發ざ蔑悗修个砲△辰深篠期と思われる石仏。
1つだけぽつんとあったので後世に持ってこられたのかもしれませんが、かつて穴太城跡以前に中世墓か寺院跡等があったのかもしれません。
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B区西端の土塁。縄張図瓦硫媾蝓ちょっと分かりずらかったですが、まぁ確かに土塁なのかも。
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B区の瓦療變櫃寮沼Δ垢阿砲△觜發泙蝓F貭タ㉑の箇所。京都府中世城館調査報告書の縄張図には記載されていないもので、恐らく古墳で間違いないと思われますが、古墳の周りも平坦に整地され、縄張図ではB区とC区に連続性が無いように書かれていますが実際は連続していたものと思われます。
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縄張図㉑の古墳からまた斜面を登っていきますが、斜面上には小曲輪が段状にC区主郭まで続いています。縄張図㉒の箇所。
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尾根の上から段曲輪群を望む。
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段曲輪群を登りきるとC区の主郭一帯に到達します。縄張図㉓の箇所。
C区主郭の中央に高さは低いですが櫓台状の高まりを設け、周りを見渡せるようになってます。
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C区西端にある土塁。縄張図㉔の箇所。穴太城跡の城域はここまでです。

穴太城跡は縄張図ではA・B・C区に分けられていますが、縄張の雰囲気と現地で確認した相互関係からすると、A区とBC区の2つのエリアに分かれている気がします。
野田泰忠時代はC区の主郭あたりに小さな砦が築かれ、徐々にB区まで拡張し、戦国期の赤沢氏時代にA区が新たに築かれこちらが穴太城跡の中心部となり、明智光秀による接収後にA区に改修が行われたのではないかと推測します。

穴太城跡は3つの城域を合わせてもそんなに大きくはない大名の攻撃を受ければすぐに落ちるであろういかにも在地の国人衆の中世山城跡ですが、それでも当時の人々の息遣いを十分感じさせられる城跡でした。神社からすぐ城域に至ることのできる手軽さもありがたいです。
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コメント

  • mixiユーザー

    mixiユーザー2017年03月21日 06:30
    突然足跡すみません。内容が詳細で分かりやすく、山城のことがとても勉強になります。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2017年03月21日 06:33
    > mixiユーザー ご訪問ありがとうございます!コミュニティでは時々お見かけします。素人論ではありますが、うれしく思います。

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