今日は、アクト青山の『三島由紀夫 近代能楽集 班女×熊野』を観に行く。
演出はいつものように主宰の小西優司さんである。
観る前にいつものように戯曲を読んでみた。
どちらの作品も過剰に恋愛の感情を強く感じる本であった。しかし、その反面、全体的なイメージがつかめない所があり、どんな作品になるのかが気になるところがあった。
ステージはただでさえ通常の芝居小屋とは違う形の上に、中央に舞台が作られ、その周りには下に降りる階段、ステージの四隅の床には椅子が置かれていた。
そして、出演者が登場して、『班女』が始まった。
ステージ全体に照明は当てられず、所々に当たるという形であった。そして、そこに役者達が入り演技をするのであった。
『班女』の登場人物が全員登場しプロローグが演じられていたのだが、その途中に役者達が何人かステージに現れるのであった。
戯曲を読んでいるので『班女』の登場人物の人数は知っていた、ところがステージ上にはあきらかに多くの役者が登場したのであった。
それにおかまいなしに『班女』は続けられていたのだが途中で芝居が止まってしまい、『熊野』が始まったのである。
そして、何事も無いように『熊野』は続けられていったが、また途中で話は終わり、また『班女』の続きが始まるのであった。
そして、二つは交互に展開していく。
ところが、この二つが一つの世界になるという感じがないのである。下手をすれば、観ている者に物語の整理を邪魔してしまうのではないのかとも思えたのであった。
そしてさらにややこしくしているのは、それぞれの作品の一つの登場人物を一人の役者が演じてているのであった。ややこしいことにその役者の演技は二つの作品のどちらにもいてもおかしくないという印象を与え、整理をややこしくするのであった。
ところが、オイラはそんな演出で見せられているのに、どうなっていくのかと期待感を高めているのであった。
小西さんの演出がたただものでないのを知っているというのもあるからである。
そんな状態のまま、二つの話は交互に進んで行くのであるが、それぞれの役の激しい感情を出す役者からは狂気を感じるのであった。
そして、先ほど書いたような照明の状態が演じられている空間の狂気性をより強くしているのである。
それは観ていて、近づいてはいけない、近づけば演技の狂気さに斬られる。それくらいのものを感じる演技の空間ができあがっていた。
小西さん、凄い。
またこの演出家に衝撃を与えられた。
そして、その感動は戯曲を読んだ時にはなかった、この作品を演出したいという自分の欲に刺激を与えられたのであった。
いつもながら、必ず何かを与えられる演出家である。
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