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2011年05月03日19:48

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釈迢空歌集『倭をぐな』

1955年、中央公論社刊。現在は短歌新聞社文庫に入っているものが入手しやすい。僕はこの文庫本で読んだ。
タイトルの「倭」は「やまと」と読む。迢空没後に刊行された遺歌集である。
収められている歌の数は実に988首。大きく前半と後半に分かれる。前半は1941年3月〜1948年1月までの作品群で、迢空自身が編纂し、「倭をぐな」という見出しが付いている。後半は、それ以降没年(1953年)までの作品を迢空の門弟3人(鈴木金太郎、伊馬春部、岡野弘彦)が編纂したもので、「倭をぐな 以後」という見出しが付いている。したがって、狭義の「倭をぐな」は本書の前半、広義の「倭をぐな」は前半と後半の総体、ということになるようだ。


羽咋の海 海阪晴れて、妣が国今は見ゆらむ。出でて見よ。子ら

・・・前半の初めの方にある歌。羽咋(はくい)は現在の石川県羽咋市。迢空の養子(にして恋人、あるいはつれあい、と言うべきか。迢空が同性愛者であったことは周知の通りである)の春洋(はるみ)の生地である。心持ちも声調も昂ぶっている歌だ。僕は、迢空の歌と言えば、典型的にこんな感じの歌、というイメージがあったのだが、この歌集にはこうした歌は少ない。

迢空は歌を分かち書きにして、さらに句点読点を多用する。今、このスタイルを継いでいるのは岡野弘彦ぐらいだろうか。正直なところ、この書き方にはどうもうまくなじめない、という読後感が残った。歌の息のようなもの、それをできるだけ正確に読者に伝えたい、と願ってのことなのだろうが、分かち書きがされていなくとも、句読点がなくとも、おのずと息は伝わってくるものだろう。そしてそれがおのずと伝わってきた時に、歌を読む喜びを感じる、ということが多いのではないか。そう思うと、迢空の書き方はいささか“うるさい”という感がある。もっと読者を信頼して読者の読みに委ねてもいいのではないか? と言いたくなったりした。

ただ、例えば、《ちゝのみの父をおくりて来し山の 土に聞こゆる松風の 音》というような歌の場合、「山の」の次の1字アケはなくてもいいように思うが、「松風の」の次の1字アケは、これは要る、と思う。ふつうは「松風の音」と続けて読むところだが、そうか、「音」の前に1拍分の休止符があって、最後の「音」の一語にスポットが当たるような感じで読むのか、と分かる。こういう場合の分かち書きの効果というのはあると思うが、それなら、分かち書きや句読点の使用は、この歌のようにどうしても必要なケースだけに絞ってもいいのではないか、とやはり思ってしまう。


かたくなに 子を愛(メ)で痴(シ)れて、みどり子の如くするなり。歩兵仕官を

・・・春洋は硫黄島へ出征し、そこで戦死する。その報を受けた迢空のふかい悲しみが、この歌集の主調音となっている。この歌は、3首前に、《洋(ワタ)なかの島に立つ子を ま愛(ガナ)しみ、我は撫でたり。大きかしらを》と詠まれているように、春洋の出征前夜を詠んだ作品である。養子ということは措くとして、ただの父と息子ではない。性愛を軸とした対関係の相手、そのいとしい者が戦いにおもむく。もう、何か、メロメロなんである。ちょっと余談だが、「愛で痴る」という語、僕は短歌に近づき始めた頃に何かで知って、痛切によくわかった語である。僕もそんな状態だったことがあったのだ。


愚痴蒙昧の民として 我を哭かしめよ。あまりに惨(ムゴ)く 死にしわが子ぞ

・・・春洋の死をかなしむ作品群中の歌。ストレートに思いが伝わってくる歌だ。


さて、それなら、この歌集はある一人の同性愛の男が、愛する養子の戦死をひたすら嘆き悲しんでいる歌集なのかというと、そうではない。釈迢空とはすなわち民俗学あるいは古代研究の学者・折口信夫である。戦時中は種々辛い思いをしたが、戦争が終わってとりあえずホッとした、敗戦はある意味では解放感を伴うものであった、というようなのとは全然違うのである。春洋の死をかなしむというテーマがこの歌集の縦糸だとすれば、神ながらの国体(こういう場合、「國體」と表記した方がいいかも知れない)が倒れ、良からぬ世が到来した(と迢空は強く思っていただろう)ことへの戸惑い、あるいは嘆き、といったテーマが、この歌集の横糸をなす。

我が心 虐(サキナ)みて居む−。人みなのほしいまゝに言ふ世と なりにけり

やりばなき思ひのゆゑに、びゆうびゆうと 馬をしばけり。馬怒らねば

・・・「我が心・・・」はこの歌集の前半、「やりばなき・・・」は後半に属する。「やりばなき・・・」の「びゅうびゅう」の2番目の「びゆう」は、縦書きの時の繰り返し記号(「く」を長く書いたような、アレです)が使われているが、ここではこのように表記させていただく。

敗戦の後、自由にものが言える世になった(と普通は言われるが占領軍の言論統制もあっただろう、というようなことはここでは措く)、ともかくも良かった・・・・かというと、迢空の場合はそうではない。「人みなのほしいまゝに言ふ世」となったことを苦々しく思い、ひたすら我が心を虐んでいようというのである。《潰(ツヒ)へゆく国のすがたのかなしさを 現目(マサメ)に見れど、死にがたきかも》《おほみこと 現(マサ)に顕(ウツ)しく宣りたまふ−。かむながら 神に在(オハ)さず。今は》《日本の国 つひにはかなし。すさのをの昔語りも 子らに信なし》《我どちと おほよそ同じ凡人(タゞビト)の政(マツリゴ)つ世に、味気(アヂキ)なく生く》と彼は詠む。推測だが、こうした歌を含むがゆえに、そしてこうした歌を削る気持ちは迢空には全くなかったがゆえに、この歌集の前半部は彼自身が編纂を終えながら、彼の存命中に世に出ることはなかった、のかも知れない。あくまでもこれは推測である。

「やりばなき・・・」は、そうした思いが強いインパクトを伴って詠まれていて、とりわけ印象に残る歌だ。いかんともしがたい時代への思いを、馬をしばくシーンに託している。ところで、この歌を詠んだ時、迢空は61歳。自らが馬をしばいたのではあるまい。誰かが馬をしばいているのを見て感情移入して詠んだのだろう、と思われるが、高野公彦さんは、さらに、「馬を叩いてゐるのは或る男であると同時に、迢空自身であり、そして敢へて言へば日本人といふものであらう」と書いている(『歌壇』1987.9)。正確に言えば、その時点でのリアルな日本人というよりは、その時点で迢空が斯くあらまほしいと願った日本人、であろう。高野さんは、さらに続けて、迢空の歌に時折り見られる主語不明の歌は、迢空に宿った無名のたましひ、すなわち汎日本人が主語をなすと言うべきだろう、と記している。ちなみにこの24年前の『歌壇』は、今回、引越しのための本の整理をしていてひょっこり現れた貴重品である。僕はまだ短歌に格別の関心を抱いてはいなかった頃だが、たぶん、『死者の書』を読んで迢空にハマッてしまい、「特集・釈迢空」という表紙を見て買ったのではなかったかと思う。


素朴な疑問が浮かぶ。神ながらの世に深く思い入れていたのなら、春洋がその「國體」の護持のために一命を捧げたのは、迢空にとって誇りとするべきことではなかったのか。そこへ、なぜ、親子、あるいは対関係ゆえの悲しみという「私情」を強烈に持ち込むのか。そして、迢空自身もまた、神ながらの世の終焉とともにそれに殉じて死を選ぶ、という選択をなぜなさなかったのか。1945年、「八月十五日の後、直に山に入り、四旬下らず。心の向ふ所を定めむとなり」(本歌集前半のある一連の詞書)という日々があったのだという。したがって、その頃、迢空はほとんど歌を残していない。その四旬のうちに、ともかくも、今ここで死ぬまじ、と決したのではないか、と思う。

風の音しづかになりぬ。夜の二時に 起き出でゝ思ふ。われは死なずよ

戦ひにはてし我が子のかなしみに、国亡ぶるを おほよそに見つ

・・・「風の音・・・」は歌集後半、「戦ひに・・・」は前半に属する歌。「われは死なずよ」と詠んだ時、迢空の心中には忸怩たるものがあっただろう。そうでなければ、ふつう、ひとは、「われは死なずよ」などとは詠まないものだ。それでも春洋がはてたそのかなしみによって、国の亡びむことはおおよそ見たのだ、と言う。ありていに言えば、これは言い訳である。が、ともかくもかかる言い訳を立てることによって、迢空は自死を避ける選択をした。酷な言い方をするなら、それはいささか美しからぬことである。が、いのちはそのような方位を選んだ。この歌集に声調高き歌が少ないのは、いかんともしがたいところだっただろう。

いのち、と言いかければ、この歌集を読んでいて気づいたのだが、迢空はどんなに落ち込んでいる時でも、新年が巡ってくると生気を得て「睦月」をよろこびことほぐ歌を詠む。繰り返し詠む。過ぎ越しの祝い、新年を迎える祝いは、世界宗教以前の、それこそ迢空が関心を寄せたこの国の(と限定してよいのかは疑問だがとりあえずそう言っておく)原始信仰につらなるものだろう。そうした意味では、迢空の、折口の古代への関心は、自らの身体に貫かれた資質に由来するものであったかと思い、やはりそれはそれで稀有なことであろう、と思う。

ただし、それが「民族の情念の根元」(岡野弘彦さんの文庫版解説より)などと定式化されたら、たちまちあやしくなる。そういう「根元」はいかなる「民族」であろうとも(近代史の中での支配民族であれ被支配民族であれ)幻想にすぎない。折口の古代研究はそうしたバイアスに彩られたものであったのだろうということ、この先、改めて彼の散文を読むことがあればこころしておきたい、と思った。


基督の 真はだかにして血の肌(ハダヘ) 見つゝわらへり。雪の中より

人間を深く愛する神ありて もしもの言はゞ、われの如けむ

・・・迢空は自らが編纂した前半部の末尾に、《あゝひとり 我は苦しむ。種々無限(シユジユムゲン)清らを尽す 我が望みゆゑ》という1首を置いた。やはり彼も願望としては「清らを尽」くしたかったのだろう。にもかかわらず、後日編纂された後半部に、こういう無気味なわけのわからぬ歌を残した。それもまた彼の資質のいたすところだったに違いない。それなら、ほんとうは、出来合いの「神ながら」なんぞに入れ込んではいけなかったのではないか。敗戦を、とりあえずは解放と受けとめても良かったのではないか。後の世の者は何とでも言える、と言えば、まあそうなのだが、そんなふうに言いたくなる気もする。そして、無気味に詠むなら、もっともっと突っ込めよ、とも言いたくなったりするのだ。

いまははた 老いかゞまりて、誰よりもかれよりも 低き しはぶきをする

・・・後半ラストから3首目の歌。ここには、いわゆる思想へ手を伸ばそうとせず、等身大に己が身を詠む一人の翁がいる。この歌集のあちこちに、こういう歌があって、ちょっと僕は意外だったのだが、この1首はとりわけ印象に残った。神ながらの国、愛する者の戦死、時代の変容による失意。さまざまなことがあった。あったが、それを経巡って、われはこんなふうにしはぶきをしている。歌が帰りつくべき最終の港はやはりここなのか。いささか寂しくもあるがあたたかくもあるような港である。
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