恐らく人は、心の奥から望んでさえいれば、時間の差はあっても、徐々に其処に近づくものだと最近は然う感じています。
そして、徐々に確信を持っているのですが、その事に関しての哲学が、しっかりしていれば、そうそうズレた事が起きない様な気がします。
その中のヒントが、この題名にあるのです。
人はそれぞれ家族と故郷と学校と、或はその周りの人達との交わりの中で、何らかの痕跡や記憶を残しています。それが自分に取って良い事であってもそうで無くても。
言い切るのは危険なのですが、出来る事が少ない程、どうやらこれ以上痛い目に逢いたく無いと、守備的な人間になる事が多いのです。それは同時に、他者に対して無意識の内に攻撃的になる。と言う事を意味しています。
後は、良い事よりも、悪い事の方が印象に残り易く、また長引き易い。と言う事も関係しているかもしれません。なので、逆に其処に神経を気にし過ぎると、余計に良く無い気もします。
というのも、人はこうしたく無いけども、意識してしまうと、その方向に向いてしまう事も経験するかと思いますが、その事が、より相対的に悪い印象を強化してしまう。その部分が大きいからです。
弱みを見せない。別に強気で居る必要性は無いのですが、或る程度は鈍感さいい加減さも必要な様です。其のさじ加減がまだ一寸分かってないのかな。そんな気も致します。
後は、自分がナイーブになって居る時は、周りに神経が行く。と言うよりは、自分が傷つかない様に。というか、冷静な気持ちが欠けている分、より素の自分が出てしまいます。それが、印象としては良く無かったのかな。振り返ると然う感じます。
話しを元に戻しますが、恐らく正解の無い事の中から、ベターな事を見つけているのだと思うのです。なので、それなりの仮説を立てる力と、それと同時に、その仮説が余り機能しなかった時に、引きずらないで、思い切って変える勇気も必要なのです。
人は見ている。と言うよりは、どうも相手の気にするポイントが何処か。それが分かる事の方がどうやら大事な様です。何故ならば人はその歴史を通じて、敏感さと鈍感さを身につけているから。その敏感さを或る程度正確に把握すれば、仮説の方向性としては、ズレが余り無くなるからです。
それが余りに違い過ぎると、ぎくしゃくしてしまうのでしょう。
後は、対人と言う面で考えると、エゴというのは得てして悪く働きます。それはしている人間は気付き辛く、相手は敏感に感じ取るのです。
なので、変に挽回しようと思うよりは、出来るだけやな事は忘れて、淡々としかし先の事を気にしながら、試行錯誤して行く。その姿勢がどうやら必要な様です。
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