mixiユーザー(id:19181805)

2016年04月12日16:42

792 view

薩摩街道、伍日目。〜南関宿。

4月11日の歩行距離2.0km。山家宿は円通院からの総歩行距離82.3km。

さてもさて、前泊の原町宿(52.6km)から次の南関宿へ足を延ばすには・・・ウッシッシ
http://www.jinriki.info/blog/kacchan/160.html

10.1km歩かにゃならないワケだけど・・・蓄え分8.1kmを切り崩して、今回も何とか南関宿(62.7km)へ到着したコトにするあせあせで、蓄えは残りあと25.7kmとなるウッシッシ


湯谷柳川領境界石は筑後と肥後の国境手(チョキ)ようやく肥後は熊本入りデスるんるん
https://www.google.co.jp/maps/@33.0811434,130.539658,3a,75y,205.77h,88.08t/data=!3m6!1e1!3m4!1s10iXAbox0D0qsiLuTbMrRA!2e0!7i13312!8i6656

南関御茶屋が修復復元され国史跡となっている。 嘉永5年(1852)に建造されたもので、熊本藩、薩摩藩などに参勤交代で使用され、明治期には料亭として使用されていた。
https://www.google.co.jp/maps/@33.062227,130.541622,3a,75y,90t/data=!3m8!1e2!3m6!1s87642519!2e1!3e10!6s%2F%2Flh4.googleusercontent.com%2Fproxy%2Fb8vJhGGXFJYjmUKRyeFI7upKulx6ylu9NZwGtv4iQdeWWhvQP2gg8zRenoSjhVT9vK0wtQwqzhfis3SaP2P7vA46PNw_mg%3Dw203-h152!7i2560!8i1920

南関あたりから明治10年(1878)の西南の役の戦跡が続いている。ここ正勝寺は官軍の本営となった。正勝寺は永正3年(1506)の創建。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E6%AD%A3%E5%8B%9D%E5%AF%BA%EF%BC%88%E6%B5%84%E5%9C%9F%E7%9C%9F%E5%AE%97%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E6%B4%BE%EF%BC%89/@33.0611098,130.5405539,3a,75y,90t/data=!3m8!1e2!3m6!1s-oB8cKs-id2g%2FU2iIy_k967I%2FAAAAAAAAAIQ%2FpUJj2R9og5s!2e4!3e12!6s%2F%2Flh6.googleusercontent.com%2F-oB8cKs-id2g%2FU2iIy_k967I%2FAAAAAAAAAIQ%2FpUJj2R9og5s%2Fs203-k-no%2F!7i3648!8i2736!4m2!3m1!1s0x0000000000000000:0x66e68fbc96ce072b!6m1!1e1

《南関宿》 (肥後国) 薩摩街道6番目の宿。南関は筑後国と肥後国の国境という交通の要地に位置した街道の警備の拠点であり、現在の南関町の中心部近くには、関所と南関番所が置かれた(関所は、大津山の関、松風(まつかぜ)の関とも呼ばれていたが、関所がおかれた正確な場所は、いくつかの説があり現在もはっきりしていない。福岡県山川町と南関町の県境付近に置かれていたという説や、北の関と南の関の二つがおかれていたという説がある)。 また、参勤交代の道中、肥後藩主らが休息をとった「御茶屋」は、現在、豊前街道南関御茶屋跡として保存されている。肥後国熊本藩初代藩主である細川忠利も、寛永九年(1632年)の肥後入国の際に南関で休息をとり、熊本に向った。

画像は南関ゆかりの著名人
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する