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2017年12月12日20:33

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交響曲第1番

危険・警告ここから幾つかの日記は、鑑賞会用の解説です。危険・警告

第19回ネット鑑賞会 ベトマラソン第1夜

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
交響曲第1番ハ長調作品21 24m57s
宇野功芳指揮
新星日本交響楽団


かんち自身の解説

ベトマラソン第1夜のトップバッターは、全てのトップバッターでもある、第1番です。

ベートーヴェンがまだハイドンの影響が抜けない時期の作品ですが、すでに個性もプンプン匂う魅力もある、埋もれた名曲だと言えるでしょう。

それだけに、全集にしかなかなか録音がない作品でもありますが、これは意外なところから引っ張ってきました。これも全集の一部なんですが、あの「コーホーさん」が新星日本交響楽団(現東京フィルハーモニー交響楽団)を振った全集ってのがあるんですよ。

私はその分売しか持っていませんが、実は一番最初に買ったのが、この第1番と「運命」のカップリング。運命はまた別途取り上げます。ものすごい変態演奏なので・・・・・

やはり、年末は振り返りの季節でもあります。そこまで鑑賞会らしくしてしまうと、おせちを食べるまでにおなか一杯になりかねませんあせあせ

そこで、それほどでもない、第1番を鑑賞会らしく取り上げてみました。あの辛口評論家が振るとどうなるのか、皆さまの耳で確かめてくださいませ。

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ベートーヴェンの交響曲第1番ハ長調作品21は、ベートーヴェンが1800年に完成させた自身1曲目の交響曲である。ピアノソナタ第8番「悲愴」や七重奏曲、6つの弦楽四重奏曲などともに、ベートーヴェンの初期の代表作として知られている。

ベートーヴェンの交響曲のうち、第1番、第2番はベートーヴェンの初期の作品に含まれる。ベートーヴェンの作曲活動初期は、ハイドン、モーツァルトといった古典派の作曲家の作曲技法を踏襲していた時期があった。本作は第3楽章にメヌエットと題しながら実質的にはスケルツォを導入するなど、随所にベートーヴェン独自の意欲的な試みも認められるものの、依然他の作曲家からの影響色が強く見受けられる。中期・後期の大作群と比べると未熟な作品ではあるが、同世代の他の作曲家による交響曲と比較すれば十分な完成度を示している。

ベートーヴェンは当初ピアニストとして生計を立てていたこともあり、初期の作品はピアノソナタ、ピアノ三重奏曲、ピアノ協奏曲など、主にピアノに関する作品が中心を占めている。一方で、この時期には弦楽四重奏曲、七重奏曲などの作曲も経験しており、これによってベートーヴェンは合奏曲の書き方も学ぶことになる。

これらの作曲を経験することによって、ハイドン、モーツァルトら古典派の作曲技法を吸収し、自らの技術として身につけている。

交響曲第1番は、ここで学んだ技術の総集編として、1799年から1800年に作曲されたものと考えられている。

この作品はゴットフリート・ファン・スヴィーテンに献呈された。

1800年4月2日、ウィーンのブルク劇場にて、ベートーヴェン自身の指揮により初演。 ブルク劇場での初演はプログラムの最後に組み込まれた。

完全な2管編成を要求するこの曲は初演時に「軍楽隊の音楽」と揶揄されたという。

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宇野 功芳(うの こうほう、1930年5月9日 - 2016年6月10日)は、日本の音楽評論家、指揮者。東京都生まれ。国立音楽大学声楽科卒。

父は漫談家の牧野周一、長弟の宇野弘二は牧原弘二の芸名でジャズシンガーとして活動、次弟の宇野道義(筆名・宇野通芳、1945年−1997年)は帝京大学助教授を務めた。

なお功芳は筆名であり、本名は宇野功(うの いさお)である。あまりに身体が弱かったため父の牧野から心配され、功が23歳のとき牧野が姓名判断によって貰ってきた名前が功芳であるという。以前は宇野功芳を「うの いさお」と読み筆名としていた。

1930年5月9日、漫談家の牧野周一の長男として東京に生まれる。4歳のときに童謡の会「金の鈴子供会」に入り、小学校5年生までここで童謡を歌っていた。旧制東京府立第四中学校在籍中に学制改革に遭い、東京都立第四高等学校(現在の東京都立戸山高等学校)を卒業、同校在学中にも合唱活動に熱中していた。早稲田大学英文科と上智大学英文科に合格し、後者に入学するも合唱部のレベルが低いので入学金を払っただけで中退した。1950年秋からテノールの鷲崎良三のもとでレッスンを受け、6年かかって国立音楽大学声楽科に入学する。

この間に体を壊し、肺結核で闘病生活を送った宇野は1952年、敬愛する指揮者ブルーノ・ワルターに手紙を出したところ、ブロマイド付きの返事を得た。これがきっかけとなり、『ディスク』において「ブルーノ・ワルターの芸術」を執筆し評論家としてデビューすることになる。

しかし音大入学前より合唱指揮者を目指していた宇野にとって、評論を生業にすることは当初、不本意だと感じていたようである(近著『宇野功芳の「クラシックの聴き方」』では、学生の頃から取り組み続けている合唱への愛を繰り返し表明する一方、原稿を書くのは「あまり好きじゃない」と告白している)。ともあれ数年後には『レコード芸術』(音楽之友社)とのつきあいがはじまり、やがて数多くの雑誌で執筆活動を行うようになる。1963年ごろ『合唱界』(東京音楽社)誌上で日下部吉彦、佐々金治とともに鼎談による演奏批評を行っていたこともある。

2016年6月10日、老衰のため没した。86歳没。

後述のように、宇野は独自の評論観を特異な筆致で断定的に書き上げる批評には熱心な信奉者があった反面、嫌う者も多かった。1989年に講談社現代新書から出版した『クラシックの名曲・名盤』がベストセラーとなったことで、知名度と人気が高まり、宇野の独断的な批評も一般の認知を得る形となった。

以前は宇野がよくないと思った演奏に対するあまりに遠慮のない批判が問題になったようである。しかし、宇野を極端に嫌う読者が批判した盤を購入する場合があり、また、宇野の批評は文章から演奏の性格が判断しやすいため批判した盤についても読者が自分の好みに合わせて購入する場合があることが判明したため、現在に至るまで特に箝口令は出されていない。

文筆を行う一方で、成蹊大学や帝京大学、跡見学園女子大学の合唱団の常任指揮を勤める。1960年代からKTU女声合唱団(KTUは小松川高校定時制宇野の略)を主宰。1978年からはオーケストラの指揮も始め、日本大学管弦楽団を皮切りに新星日本交響楽団、アンサンブルSAKURA、大阪フィルハーモニー交響楽団、東京フィルハーモニー交響楽団などと共演した。合唱、管弦楽の両分野で多くのレコード、CDが発売されている。

音楽面以外の趣味としては四柱推命がある。著書「いいたい芳題」には「四柱推命と演奏家たち」「四柱推命でショパンの誕生日を推理する」という章がある。

宇野の評論は、対象の実質を直感的感覚的な言葉で把握することに優れ、地に足のつかない文章ながらも理解が容易であるのを特徴としている。全ての評論家と同様に、(しばしば大きな)嗜好の偏りはあっても、専門用語を振り回さずに演奏の良し悪しを伝えようとする真摯な素直さがある。

しばしば「主観的」で「歯切れのいい」文章だと指摘される。本人の主張によれば、常に自分だったらどう演奏するかを頭に置き、演奏家の視点を反映させて評論しているから、「主観的」になるのは当然だということである(例えば、宇野功芳へのインタビューを参照)。

「歯切れのいい」と感じられる要因は、断定的な言い切り表現(「○○だ」「○○である」)が多用されることと、悪いと感じた演奏に対する遠慮のない辛口表現(「メータのブルックナーなど聴くほうがわるい、知らなかったとは言ってほしくない」「あの顔を見れば、およそどのような指揮をする人であるかは一目瞭然」など)が強く印象に残るためであろう。一方、文章中には反語表現や推量による婉曲な断定(「○○といえよう」)も適度に差し挟まれ、単調感を巧みに避けている。このほか「切れば血の出るような」「光彩陸離たる」「コクのある響き」「いのちを賭けた遊び」など、彼特有の言い回しは多い。

そのアクの強い文章は、しばしばクラシックファンの揶揄やパロディの対象となる。『クラシック悪魔の辞典』(1999年鈴木淳史著・洋泉社)には「ウノ語」という項目があり、「神が、宇野功芳だけに使用をお許しになったといわれる、独創性に彩られた最高級の紋切言葉。」と解説されている。

人気や巷間の評判などにかかわらず、良くないと思った演奏や演奏家はバッサリ切り捨てる(稿料をもらっているであろうディスクのライナーノートでさえ一切ほめずに酷評していることがある=クレンペラー指揮、ブルックナー交響曲8番など。敬愛するワルターの演奏でも駄目なものはバッサリ酷評している)が、優れていると思った演奏は、ふだん酷評ばかりしている演奏家のものであってもしっかりと褒めている。たとえば、カラヤンには総じて批判的だが、褒めるときは思いきって激賞しており、全体数が多いのでそうした文章ばかりピックアップして集めると、熱烈なカラヤンファンと間違われかねないほどである。

また、「音楽評論家である以上、好き嫌いではなく良し悪しを語らなければならない。」とも述べる。

日本におけるクラシック音楽受容を語る上で、宇野の影響は無視できない。たとえば日本では長年、色物的な扱いに甘んじていた指揮者、ハンス・クナッパーツブッシュを風潮にとらわれず長年にわたり一貫して評価したことは、クナッパーツブッシュのディスクがレコード店の店頭から消え去るのを防ぐ一助となった。

また宇野が著書『名演奏のクラシック』(1990年、講談社現代新書)で褒めちぎったピアニストであるエリック・ハイドシェックは、それ以後日本での演奏機会が激増し、廃盤になっていた数多くのディスクも再発売された。ハイドシェックの来日公演の際、宇野は指揮者として、ピアノ協奏曲(「皇帝」と「K595」)の伴奏も務めている。

また日本人指揮者では朝比奈隆を支持し続け、20世紀末には「朝比奈ブーム」とも言うべき社会現象を巻き起こした。それを通じて、朝比奈が得意としていたブルックナーをクラシックファンに浸透させていった業績も見落とすことができない。

他にはオットー・クレンペラー(宇野が擁護した頃は、実は日本での現役盤が極めて少なかった)やロヴロ・フォン・マタチッチ、エフゲニー・ムラヴィンスキーなど、いわゆる「スケールの大きな演奏をする演奏家」「個性的な演奏をする演奏家」を擁護している。逆に、一見淡々としているがニュアンスや香りの深い演奏家にも好意的であり、クレメンス・クラウス、カール・シューリヒト、オトマール・スイトナー、ポール・パレーらが挙げられる。

ハイドシェック賛美に関しては、黒田恭一や渡辺和彦らが直接的ではないものの、宇野の賛美を遠まわし的に嘲笑する発言をしている(特に渡辺は、「日本の一部でのみ支持者がいるハイドシェック…」と暗に宇野の存在をにおわす発言をしている)。

評論家としての知名度の高さゆえに、指揮活動が隠れてしまっている面は否めないが、本人は、合唱指揮者が本職だと主張している(『宇野功芳の「クラシックの聴き方」』)。宇野が指揮したレコード、CDは、プライベート盤を含めて延べ50枚以上に及ぶ[5]が、合唱の分野はそのうちの約7割を占める。彼は、合唱の中でもとりわけ女声合唱に魅了され、モーツァルトの「戴冠ミサ」や「魔笛」、日本の昔の歌謡曲などを女声合唱曲に編曲し、日本女声合唱団などで演奏している。

オーケストラ指揮者としての宇野は、レパートリーを古典派とロマン派に絞っている。とりわけモーツァルト、ベートーヴェン、ブルックナーが中心になっている。アマチュア団体のアンサンブルSAKURAを指揮したCDをいくつか発売しているが、ベートーヴェンの演奏に強化ティンパニを使用するなど、その解釈は奇天烈なものである。一般の演奏者からは「これは解釈ではなく冒涜だ」と忌み嫌われたりもするが、一方では熱狂的な信者も存在したりする。
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