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2017年12月24日04:05

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あなたが本当に「演劇人」なら、市原幹也を救おうとはしないはずである

■平田オリザ、劇団をセクハラのダシに使われ激怒 「劇団の名前を犯罪行為に使われ、はらわたの煮えくりかえる思い」
(キャリコネ - 12月21日 14:31)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=210&from=diary&id=4913801


■セクハラ告発 演出家の契約解除
(NHK NEWS WEB - 12月21日 17時44分)
http://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20171221/0005279.html

 市原幹也のセクハラ問題で、青年団の名前を悪用され、主宰の平田オリザ氏が激怒した件については、前回の日記にも書いた。平田氏の怒りは当然だろう。市原(ともう呼び捨てにしよう)と平田氏とは、殆ど接点がない。全くの捏造で、女性を篭絡しようとしたのだから、これは立派な詐欺行為だ。クヒオ大佐かそれ以上だと言っていい。
 実際に暴行を受けた女性もいたろうから、被害女性が即座に訴えていれば、傷害、暴行、強姦、何らかの罪に問うことができたはずである。けれども被害女性の殆どが泣き寝入りしてしまった。女性たちの無念を思うと、平田氏ならずとも、私だってはらわたが煮えくり返る思いがする。

 私もセクハラ相談を受けたことがある旨、日記に書いたのだが、実のところ、その数は一件や二件ではない。全部書いてたらキリがないから、前回は一件のみに留めたのだ。正直、その中には、解決できたこともありはするが、被害者に何の力添えもできずに、悔し涙を呑んだこともあった。話を聞いても相手が遠方で、どうにもできなかったこともある。
 だいたい私自身が、セクハラに遭って(男からです)、今でもストーキングされていることは、何度か日記に書いていることだ。職場も警察も法務局も何もしてくれなかったからね。「泣き寝入りせざるを得ない」原因についても熟知している。被害者の「心情」は罪を問うための証拠にはならないのだ。
 推定無罪=「疑わしきは罰せず」の法則を崩すことはできないから、物的証拠がない限り、被害者は全てをなかったことにして諦めるしかない。
 いや、この際、自分のことはいいよ。身内が被害に遭って、それで相手を許せるものじゃない。法は順守しなきゃならないことは知っている。だから、市原幹也を起訴しろとか、そんなことは言わない。でも「心情的には」、もしもあの犬畜生が目の前にいたら、縊り殺してやりたいって、棍棒で肉塊になるまで殴り殺してやりたいと、そう思ってしまうのだ。死刑廃止論者なんだけど。

 なのに、信じ難いことに、ネット上では市原幹也を擁護する声も聞かれるのだ。ごく少数ではあるけれど。
 「匿名SNSなんか無視しろ」とか、「伊藤詩織さんの件に比べれば罪が軽い」とか言いやがる。
 被害者が、そんなに簡単に実名で言えるものなら、泣き寝入りなんてありえないだろうが。それに、詩織さんについては、加害者(とされている)山口敬之が、罪を否認している。性行為は合意の上だったと主張している。
 だから、いくら詩織さんがレイプだったと主張しても、前述の「推定無罪」の法則が適用される。本当に被害があったとしても、行為が「密室」の出来事であって、物的証拠がない以上、罪に問いようがないのだ。

 市原幹也に関しても、もはや証拠をあげることは困難だろう。しかし、被害者は複数である。そして市原本人が行為を認めて、謝罪している。事実は確実にあったのだ。これを擁護する人間の気が知れない。おそらくは気がふれているか、同じ穴の貉なのであろう。

 と前回の日記に書いたのだが、明らかに「貉」ではない人物から、平田氏に対して「反論」が寄せられたのである。これにも驚いた。

 演劇レビュアー・ライターで、文芸メルマガ「ガーデン・パーティ」の編集長・落雅季子(おち・まきこ)氏が、Twitterに長文を連投したのだ(以下に全文を引用するが、原文は改行が全くないので、読みやすさを考えて、適宜、文を切り、一部、句読点も加えた)。

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落 雅季子‏ @maki_co · 12月21日

 市原さんから端を発した問題について、連投します。【フォロワー減っても構いません】

 まず、今回の告発をなさった女性は、誰からも貶められることがあってはなりません。
 セクハラパワハラは、女性に被害者が多く、男女差別が背景にあり、理解にも男女格差があるため、男女差別の文脈が絡んできがちですが、本当は男女関係なくある構図で、しかも日本の舞台芸術(日本だけじゃないけれど)社会では、ある種のカリスマや大御所と呼ばれる人に「権力」が生じるため、特にフリーランスのパフォーマーはハラスメントを受けやすいです。

 語弊を恐れず言いますが、「市原幹也さん」クラスだからこそ明らかになったわけで、本当に言えないまま泣き寝入りして芸術の世界を去った人、逆手に取ったつもりで渡り歩いている人は多くいるでしょう。全てを明らかにせよとは言いません。傷口を無理に開かせることはないとも言えます。しかし傷をさらけ出して訴えかけた人がより傷つくことがあってはいけない。

 あなたがたは、伊藤詩織さんのレイプ事件がもみ消されそうになった時に、政府に怒りのツイートをしたのではないですか?
 それなのに話が自らの主戦場である舞台芸術に及ぶと口を噤むのはなぜですか?
 そして、私があえて強い口調でこうして書いているのはなぜだと思いますか?
 いいですか、あなたがたの発信力および影響力などというものは、たとえ小劇場界に多少のものはあるかもしれませんが、社会全体から見たら塵ほどのものでしかありません。誰もあなたのことなんか知らないから安心しなさい。その上で立場上どうしても話題にできないのであれば、それがあなたの限界です。

 もちろん、私のように誰もかれも声を上げることだけが戦い方ではないと分かっています。誰にも強いることはしません。それこそ暴力だからです。これは「私」のスタンスです。それ以上でもそれ以下でもありません。私は女ですが、仮に男であってもこう言える自分でありたいから言っています。

 昨夜、青年団平田オリザさんの声明に対して「演劇に二度と関わってほしくない」とは言わないでほしかった、と私は書きました。少し話が飛びますが、これは私が法学部出身であり、罪形法定主義を叩き込まれて育ち、なぜ極悪人にさえ国選弁護人がつくのか、それは国家と個人というあまりに大きな力の差を持つもの同士が法廷という場でフェアに裁かれるためのシステムなのだと村岡啓一先生という方に習った真のリーガルマインドに基づく発言です。
 性暴力や脅しは刑事か民事で片付けるかはそれぞれでしょう。しかし、仮にも平田オリザさんという「大御所」(もちろん青年団の規定は立派です)が市原幹也さんに対して、あのような声明を出し、より彼を追いやることになればそれは取り返しがつかないことになります。

 現代社会は、匿名SNSの発展により、罪と罰が無限にループしてどこまで行っても許されないのが問題だと、かつて横浜の中華店で今は亡き危口統之氏が私に語ってくれたことがあります。
 その危口さんの言葉を私は忘れることはありません。誰に対しても、期限や範囲の限定されない罰を負わせることは、してはならないのです。被害者の心の傷が癒えることがなくとも、謝罪や償いがなされれば人は再スタートを認められるべきなのです。

 私は、あえて自然に目に入る以上の他者同士のリプライは追っていません。私だって好き好んで消耗したくないからです。
 でも、きちんと読んでいただければ、私が何を問題だと感じてこの連投をしているか、わかってもらえると、それくらいはわかってもらえると、信じています。
 私はまだまだ駆け出しで、実績も少ないし、いわゆる権力も持っていません。でも、強い背骨があります。だから語ります。これで誰かに疎まれようとも別に痛くない。こういう「私」を明らかにしたところで、離れる人も嫌がる人もいて、でもこれが私だから。誰かに好かれたくて発言してるわけじゃないから。

 この私の背骨の強さそのものが、男女や年齢を問わず人のヴァルネラブルな部分を刺激し、時に傷つけることがあることも、知っています。でも言えずに泣いている人の代わりに、私はいつでも声を上げる準備はできています。
 以上です。ありがとうございました。

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 「ヴァルネラブル」ってのは、「すきだらけで弱くて、 〔非難・攻撃などを〕受けやすくて」という意味だが、そういうのって、自意識過剰なんじゃないかと思ってしまうが、そう思わせてしまうのが「隙」なのかもしれない(苦笑)。
 平田オリザ氏は、この落氏の発言を受けたと思しい日記を、一日の間を置いた一昨日、アップしている。 こちらは改行の必要なし。

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主宰からの定期便/青年団公式ホームページ
http://www.seinendan.org/hirata-oriza/message/index-171222.html

(前略)
 さて、一昨日掲載した市原幹也氏のセクハラ問題についての文章も、予想外に大きな反響を呼んだようです。多くの方に青年団のスタンスをご理解いただき、ありがとうございました。
 なかには、「被害者の受けた心の傷は長く癒えることはなく、またセクハラは再犯性が強いので、市原氏には二度と演劇界には関わって欲しくないと個人的には思います」という記述が厳しすぎるのではないかというご意見もあるようです。そうかもしれません。ですから一応、「個人的には」と書き添えました。
 おそらくこの点は、セクハラ問題をどう考えるかという視点と同時に、「演劇の公共性」をどう捉えるかの違いがあるのかと感じました。

 私はこれまで、演劇は、少なくとも劇場は、学校や病院と同程度の公共性を有すると考え、それを表明してきました。それがなぜかは、たくさんの著作に書いてきたのでここでは割愛します。
 たとえば、教育の世界において、ペドフィリア(小児性愛)によって性犯罪を犯した教師に対して、「二度と教育界に関わって欲しくない」と意見を述べても、「厳しすぎる」という意見は、あまり出ないのではないかと思います。
 もちろんそこにさえ寛容であれという方もいらっしゃるでしょう。演劇と教育は違うという方もいらっしゃるでしょう。しかし、私は演劇界も、せめて教育界と同程度には、このような事柄には厳しくあるべきだと考えます。これは犯罪者の更生の問題とは別次元の話です。理由については以下に書きます。

 私は犯罪を冒した者が演劇界に戻ってきてはいけないと言っているわけではありません。窃盗などの犯歴があっても、法的な処罰がきちんと済んでいれば現場に復帰することは十分に可能でしょうし、可能であるべきです。しかし、今回の問題は、それとは質が異なると私は考えています。
 アスリートがドーピングや敗退行為といった深刻な問題を起こした際には、その業界から永久追放される場合があります。それぞれの業界には、法的な罰則や更生の問題とは別に、その業界の(あるいは業界に対する信頼の)根底を揺るがすような行為に対しては独自の強い罰則規定が有形無形の形で存在します。これも法律論とは別次元で、社会的に許された制裁であり私刑とは異なります。
 もう一点、今回の件が、一般の方にわかりにくかったのは、「キャスティングを餌に」というところが、どれほど深刻かが伝わりにくいのではないかとも感じました。
 私たちはオーディションの際、ときに1000人2000人の中から一人の俳優を選びます。2000人から一人を選べば、残りの1999人からは恨まれます。我ながら、ひどい仕事だと思います。しかし、そのような行為がかろうじて許されているのは、オーディションが公平に行われているということが前提になっているからです。受験者たちは、チャンスは平等にあると信じています。俳優たちは、機会の平等のもと、才能という不平等と闘います。
 未成年者を含む広範囲の演劇を志す人々に対して、キャスティングを餌に性的関係を迫った今回の市原氏の行為は、この信頼の根底を揺るがすものだったと私は思います。
 もちろん犯罪と罰則や制裁の内容は相対的なものです。「演劇界に関わらない」という社会的制裁が重すぎると感じる人もいれば、軽すぎると感じる人もいるでしょう。しかし、私個人は、今回の件を、従来よりも重く受け止めるような演劇界に変えていく必要があると思っています。

 演劇には、仕事という以外に「表現」という別の側面があります。それを規制するつもりは毛頭ありません。追放されたアスリートが、走ったり泳いだり野球をしたりすること自体を禁止されるわけではないように、演劇をするのは勝手です。自分で演劇を創って、家族や友達に見せることもできるでしょう。しかし、いわゆる「演劇界」には戻ってきて欲しくないというのが私の見解です。
「表現」という側面を、もっと優先すべきだという意見もあるでしょう。しかしそれでは、この手の問題を巡って、いつも散見される「やっていたことはよかったのに残念」「作品は素晴らしかったのにもったいない」といった消極的擁護論と同様になってしまうのではないかと私は危惧します。「Me too」という運動の一つの大事な特徴は、これまで、ともすれば「芸術」の美名の元、寛容に、あるいは曖昧に扱われてきたセクハラ行為を許さないという点にあると思います。セクハラだけではなく、人権を抑圧するような行為によって成り立つ芸術は、もはや許されない。特に日本の演劇界には、大きな意識改革が迫られていると感じています。

 なお、今回の問題が発覚して以降、簡単ですが劇団内の関係者に事情の聴取を行いました。もちろん全員が、「知らなかった」とのことでした。一部、噂には聞いていたようですが、それは「市原さんは女性関係にだらしない」といった程度のものだったようです。
 おそらく、北九州の枝光地区でも、類似の何らかの問題が派生していたのだと思います。しかし、その情報は広く共有はされませんでした。これはセクハラ問題の悩ましい点で、被害者の側が詳細な情報の公開を望まない場合、仲裁者は、その意向に沿って問題を処理するしかありません。情報は隠蔽され、職場であれば加害者の移動などで問題はうやむやになりがちです。今回の件も、事前の情報を知っていれば、横浜市側も雇用や契約はしなかったでしょう。関係者の責任を問うことはできませんが、被害を受けた方の気持ちを思うと忸怩たる思いになります。
 演劇界全体が強い態度で臨まなければ、このように、問題は形を変えて繰り返されます。
 被害者が未成年であったり、広範囲であったり、ある一線を越えたら、この業界には戻ってこられないという厳しい態度で臨むべきかと思います。
 いま私は、この原稿を四国学院大学のオフィスで書いています。私は、演劇を志す学生たちを預かる大学教員でもありますから、この問題はより切実です。セクハラやパワハラや人権抑圧に曖昧な態度をとる業界に、学生たちを送り出すことはできません。これはきれい事でも建前でも理想でもなく、現実的な問題です。  多くの方にご理解いただければ幸いです。

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 以前、極楽とんぼの山本圭壱が淫行事件を起こし、長い自粛期間を経て、吉本興業に復帰した時に、できればそれはやめてほしかったと書いた。彼を応援する相方の加藤浩次に対しても、怒りを訴えた。
 罪を犯した者は永久に許されるべきではない、などと、私も主張する気はない。犯罪者に対する法の精神は、彼らに常に「更生」の道を求めている。その点では、落氏の理念を否定するつもりはない。そしてそれは平田氏も許容していることである。
 しかし、「元の業界にそのまま復帰してよいのか」という点について、平田氏は「それは許されるべきではない」と主張しているのだ。文中の「教師」の例を考えれば、そこには強い説得力があることを誰しもが感じることだろう。

 市原幹也は、もう演劇の表舞台に上がるべきではない。
 けれども、彼の「更生」を否定することは誰にもできないし、させてもいけない。
 新聞配達から始めたっていいじゃないの。屋台を引いてチャルメラ吹いたっていい。山に籠って修行をするなら、それもいいよ。まだ若いんだから、やり直しをしようと思えば、何だってできる。それこそ、人生いたるところに青山あり、だ。演劇を性の捌け口に利用してたんだから、演劇に対する愛なんてないのだ。演劇に未練はないだろう。
 逆に言えば、なぜ市原幹也は別の道を選ばず、また彼の仲間もそれを勧めないのか、ということなのだ。市原だけでなく、彼の周囲の人間も、演劇を愛してはいない。演劇に対する愛があったのなら、とっくの昔に、彼を制止していたはずだ。

 日馬富士の暴行問題では、それを制止しなかった白鵬、鶴竜も、その責を問われている。だとすれば、市原幹也の北九州時代の仲間たち(被害に遭った女性を除く)、現在、演劇センターFを共同で主催している多田淳之介、野村政之、藤原ちから、横井貴子も、当然、彼の悪行を見て見ぬふりをしていたのだろうから、何らかの責任を取るべきではないのか。
 全員、演劇センターFを離れるか、組織自体を解散するか、それくらいしなければ、演劇界は角界以上に腐っていると判断されても仕方がないと思う。

 既に横浜市は、市原幹也の「横浜トリエンナーレ」講師の契約を解除している。それがマットウな反応なのだ。彼に本当に更生の道を歩かせたいのなら、「演劇」から、「舞台で行われる全ての芸術活動」から、一切手を引かせること――それが、真に彼の将来を慮ることになると思う。 

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