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2016年12月01日09:27

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【ちょろっとネタバレあり】『この世界の片隅に』批判への反論・その3/アニメへの偏見が「映画」を見えなくしている

■話題の映画『この世界の片隅に』を実写で撮れぬ日本映画界の惨状
(まぐまぐニュース! - 11月30日 21:10)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=240&from=diary&id=4319666

 プロの評論家、俳優、映画関係者の中でもほぼ絶賛の『この世界の片隅に』だが、そのうちアンチが現れるんじゃないかとは思っていた。そしたらまあ、この小川修司という人、何か微妙に貶してる文章を書いている。自身の『映画野郎』ってWEB連載のもので、一見、誉めてるような感じではあるのだけれど、でもやっぱりこの人の心の底では「アニメが誉めそやされている」ことに対する不満が芬々としているのである。
 と言うか、この人ホントにプロなん? って思うほどに、文章が素人臭い。「本当にプロなら」、それは言葉にしちゃいかんでしょう、って言質があまりに多すぎるのである。

 「試写状やフライヤーのイメージからだいたいのこの映画の感覚が掴めていただけに正直わざわざ観る映画とは思えなかった」。
 作品に対して、ある程度の予備知識を持っておくことは決して間違いとは言えないが、それが「先入観」であってはならない。小川氏は、後の文章で、名作を観るように勧めているが、若い人から「先入観」で、「日本の白黒映画って、古臭くて貧乏っちぃから観る気がしない」と言われたら首肯するのだろうか。
 それに、素人じゃなくてプロなんだから、「わざわざ観る映画とは思えなかった」とは、最初から「評論する立場」を放棄しているのも同然である。シロウトならいいよ、でもこれも何度となく例えて言ってることだけれど、プロの文芸批評家が、「何か、面倒臭そうな気がして、夏目漱石は読んだことがない」なんて言ってたらバカ扱いされるだけだ。
 こういう時、プロもどきの三流評論家は、「全ての映画を観られるわけじゃないんだから」という言い訳を口にするものだが、果たして『この世界の片隅に』は無視して構わない映画であったかどうか。ここで小川氏の、表面の高圧的な態度とは裏腹に、すっかり焦っている様子が見て取れるのである。
 「水道橋博士、町山智浩、ライムスター宇多丸、『オタキング』(←いやもうこの呼称、該当してないけど)岡田斗司夫が軒並み絶賛している」ので、しまった、乗り遅れたと慌てているのだ。もちろん、世間の高評価も知った上で、こんな名作をそれと気が付かずに見逃したとなれば、プロの沽券にかかわると考えたのだろう。自分のプロとしてのプライドを保つためには、「『この世界の片隅に』が名作であってはならない」。そういう先入観が、小川氏にあることが、冒頭の数行でバレバレなのである。
 いや、素人のアンチにはよくあるタイプなんで、だからYahoo!のユーザーレビューに書かれてるような文章なら、無視して構わないと思うが、いやしくも一応はプロのつもりらしい「評論家」なら、こんな「出遅れた言い訳」なんか書いちゃいけない。宇多丸氏の場合は「偏見を持っていて、出遅れた自分が間違っていた」と謝罪して、『この世界』を激賞しているのだが、小川氏の場合は、もう自分のちっぽけな自意識を守るためだけに汲々としている。これは「恥晒し」と言われても仕方がないレベルだ。
 「評論で(謝罪は別として)言い訳はしない」。これ、「プロ」の最低条件なので、真面目に評論を書きたいと思ってる人は肝に銘じた方がいいよ。かつて、映画評論に「体系」があったころには、先輩評論家から窘められて、こんな素人評論を書いてたらボツられてたものだったが、やっぱり批評がネット中心になって、自由度が増した分、こんな素人の感想文レベルのものが幅を利かせることになってしまうのである。

 と、最初の数行を読んだだけで、これが読む価値のない駄文であることが分かっちゃうのだが、我慢して読んでいくと、さらにこの人の腐った性根が続々と現れてくるのである。

 「要は広島県広島市南部と呉を舞台にした戦前・戦中・終戦直後の日本のある家族の悲喜こもごもで、そこにゆるゆるふわふわなタッチにのほほん・ぼんやりな感じの主人公すずの周りの温かさで見せている。」
 『この世界の片隅に』が、「要は」と簡単にまとめられる話であれば、誰も批評を書くのに苦労はしない。みんな、語っても語っても、この作品の魅力を巧く伝えられない、自分の感じたものの半分も言語化できないので、やきもきしているのだが、小川氏にはそんな葛藤は全くないようである。
 確かに物語の中心になっているのは浦野家、北條家の二家族だが、彼らがごく普通の家庭であることが重要で、小川氏にはその「ある家族」が照射している「世界」がまるで見えていない。
 こうの史代氏の描線を「ゆるゆるふわふわなタッチ」と評するのに違和感を覚える人も少なくないだろう。一見、古臭く見える絵柄ではあるが、単に柔らかいだけではなく、そこに普段の仕草からすら醸し出されるエロチシズム、即ち性と生の躍動、これを感じ取って、こうの氏の漫画の魅力に取り憑かれたファンも多い。
 しかるに小川氏の言葉は「ゆるゆるふわふわ」「のほほんぼんやり」の中にすずさんたちを閉じ込めて、それ以外の要素を見出そうとはしていない。批評を、作品を読み解くことを、そこで放棄してしまっているのである。

 さらに小川氏は、「なるほど、これは小津安二郎や黒澤明、木下惠介、今村昌平、黒木和雄、中村登も同系統の実写作品を作っていたが、このポップな感覚は革命的である。悪い映画ではない。」 と続けるが、正直、何が言いたいのか判然としない。ちゃんとした編集者が付いていれば「書き直せ」と怒鳴られてしまうだろう。
 まず「小津」以下の監督たちの、どの作品と比較してモノを言っているのかが分からない。本当に具体的な作品を想定した上で発言しているのだろうか? 「日常系」ということであるのなら、小津の場合は『長屋紳士録』あたりを想定しているのだろうか。黒澤なら『まあだだよ』とか? しかしそうなると「日常系」に根差した作品を連発していた山田洋次や野村芳太郎の名前を挙げないのは腑に落ちない。
 具体例を挙げなければ、単に知ってる監督の名前を挙げて「俺はこんなに映画を観てるぞ」と威張ってるだけじゃないかと疑われても仕方がない。「根拠を示す」という、批評の基本すらないがしろにしていては、評論家としては失格の謗りを受けても仕方がない。
 そもそもこの人に評論能力自体がないんじゃないかという気がするのは、それらの監督の映画と比較して、『この世界』が「ポップ」とか「革命的」と評しているからだ。『この世界』のどこがどう「ポップ」なの。
 『この世界』は、極めて伝統的で精緻な技法に基づいた手描きアニメで、そんな飛び跳ねるような印象を受ける人はあまりいないんじゃないかと思うが、これも具体的な説明がないので、小川氏がどういう意図でそんな表現を使ったのかは分からない。まるで「軽さ」だけを強調しているようだが、他に誉め言葉が見つからずに、むりやり捻り出したせいで、そんな的外れな表現になってしまったのではないだろうか。「曖昧な表現は避ける」こんな批評の基礎も、この人の身には備わっていない。
 小川氏は、本当は『この世界』を評価したくないのだ。「本当なら悪い映画だと言いたかったのに」という本音が逆説的に透けて見える「悪い映画ではない」という表現にそれが集約されている。何だよ、この上から目線の物言いは。

 「やっぱりこのレベルの作品をアニメでしか出来ない、実写では出来ない、ということに今の日本映画界の限界、レベルの低さ、衰退、落ち日などを痛感せざるを得ない。」
 小川氏がさらに大きく間違っているのはこのあたりで、まず『この世界の片隅に』は既に実写化されている。日本映画のレベルが全体的に低いことは否定しないが、そこで『この世界』を引き合いに出すのは例としては適切ではない。小川氏は「『この世界の片隅に』程度のレベルで泣いてしまうというのは、それだけ映画を観ていない証拠でもある」と言うが、『この世界』の実写版は存在も知らなかったようだ。
 「批評」を行うに当たって、「誉めてる観客はダメ」とディスるのも、プロがやっちゃいけない行為の一つで、先日、『シン・ゴジラ』を漫画家の藤島じゅんがやっぱり一応評価はしつつも「みんな稗とか粟しか食ったことないの?」と観客の鑑賞眼を疑う発言をして、炎上騒ぎになったことは記憶に新しい。作品を批判するのなら、その作品の何がどうダメなのかを書きさえすればよいのに、それすら充分に書かないまま、単に観客を扱き下ろすというのは、もはや評論家を名乗れるレベルとは言えないだろう。

 「悪い映画ではない」と言いながら「『この世界の片隅に』程度のレベル」と具体的な根拠も示さずに蔑んでいる点で、この三文ライターの正体はますます露呈してしまっているが、その背景には、本人の「実写至上主義」というよりは、アニメに対する偏見、さらには「アニメに実写が負けている」ことに対する恨みつらみがある。
 この手の手合いは、湯布院映画祭に行くとごちゃまんといるので、小川氏個人の問題に集約させるわけにはいかない。彼らは単にアニメーションを鑑賞するためのスキルに欠けているだけなのだが、自分がバカであるという自覚がないどころか、アニメを、あるいはアニメファンを蔑むためには労を厭わないのだ。
 実写がアニメに敵わないのは、日本のアニメが世界的なレベルにあるのに対して、実写は全体的に「普通」だから、相対的にダメに見えているだけである。『シン・ゴジラ』のような傑作も生まれているのだから、簡単に「実写では無理」と言い切ってしまうのは即断に過ぎるだろう。
 映画を制作することに多大なリスクが生じている中では、確かに「漫画原作や似たような俳優・女優の主演映画ばかりやっている」例ばかりで、明確な主張を持った映画、あからさまな戦争映画、反戦映画などが作られにくくなっている。それは、昨年、戦後70年という年にもかかわらず、『野火』の制作に多大な苦労を強いられた塚本晋也監督も述べていたことだ。
 しかし、『この世界の片隅に』も同じ理由で、スポンサーが全くつかない状況の元、クラウドファンディングという賭けに出て成功を収めたのだ。ここで実写だからアニメだからという差別で、現状を嘆いている場合ではないということに気が付かないのであれば、小川氏のような「実写派」は、ただアニメに難癖を付けて貶めることでかえって日本映画界の希望の芽を摘む癌細胞としか言えなくなるだろう。
 いや、もうなってるよな。

 その程度のレベルで、映画批評をしようというのは一億万年早いと思うが、この手の「プロ意識だけはある素人」が跳梁跋扈しているのが、日本映画界の現状であって、こいつらに「引導を渡した」方が、日本映画の可能性は開けていくと思うのである。
 そうならなかったら、本当に悲しくてやりきれないよ。




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