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2015年06月29日08:52

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『五色の舟』(原作:津原泰水/漫画:近藤ようこ) ※ネタバレは途中までは暗示のみに留めています。

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 遅ればせながら、文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞受賞作『五色の舟』を読んだ。
 これは、幸せになってほしい家族が、幸せになる物語である。
 幸せを願っていても、幸せになれない家族がこの世にはたくさんいる。その理不尽を甘受しなければならないのが現世だ。だから、彼らが幸せになれたのが偶然の奇跡であったとしても(あるいは必然的な運命であったとしても)、私たちは彼らの結末に祝福の拍手を送りたくもなるし、また彼らの幸福に羨望の涙を流しもする。

 そう、私は最後にあの世界に生まれていたいと思った。
 近藤ようこさんが一番描きたかったのは、ラスト近くのマッカーサーの姿だったという。
 あのマッカーサーがいる優しい世界に、私は生まれていたらと思ったのだ。

 近藤ようこさんとこうの史代さんとの受賞記念トークが行われた広島で、私は近藤さんに質問した。
 この漫画を描くに当たって、圧力のようなものはなかったのか、描くに当たっての思いはどんなものだったのか。
 近藤さんははっきりと「差別に反対するのが目的です」と仰った。
 『五色の舟』は自分からこの原作を漫画化したいと熱望した作品で、デリケートな題材だけにいつもは描かないデザイン画も描いて編集部と綿密な打ち合わせを行い、世間からの抗議も覚悟の上で「コミックビーム」での連載を始めたという。大手の出版社の雑誌ではないからできた企画で、実際には読者からの抗議は全くなかったそうだ。
 「作品の意図が読者にその意図通りに受け取ってもらえたのだと感謝しています」と近藤さんは仰った。

 彼らのような人々は昔からいた。
 彼らが一種の閉鎖的なコミューンを形成し、しかしながらそのことが逆に社会や世間という大きなコミューンに属することを可能にしていたことを指摘していたのは、文芸評論家の故・松田修氏である。私の彼らへの感覚は、実際に松田氏の講義を受けて形成されたものだ。
 『五色の舟』に感動し、彼らの幸福を羨ましく感じるということは、即ち「現世」がちっとも幸福ではないということだ。彼らへの差別ばかりではない、きれいごとの正義が、かえってあらゆる差別を助長している世界になってしまっている。
 『五色の舟』は、そのことを告発している。

〈以下ネタバレ〉
















 「彼ら」とは、見世物芸で一座を組んでいた奇形児たちである。
 現代の縁日の見世物は殆どトリックを使ったニセモノだが、戦後すぐくらいまでは、「蜘蛛男」や「蛇女」「牛女」「一寸法師」らは、本当に先天性の奇形児たちを見世物にしていた時代であった。
身体障碍者を見世物にするとはケシカランという世間の「良識」は、結果的に彼らの生活のたつきを奪い、彼らの存在を表から隠した。
 現代は、どのような子供が生まれてくるか、事前に分る。彼らの殆どが、生まれる前に「処分」されていることを記したレポートを、30年ほど前に読んだ。おそらく今は完全に「暗黙の了解」になっていることだろう。

 でも、『五色の舟』の、あの無条件降伏が軍部に蔓延した細菌病のせいで、原爆が広島にも長崎にも投下されなかった世界、即ち「産業奨励館が原爆ドームにならなかった世界」、あの「かたわもののマッカーサーが占領している身障者に優しい世界」だったなら、彼らは生を得て、この世での「幸福」を味わえたのではないかと思う。
 「人が人として、生まれてこない方がよいと判断される社会」の、どこに「幸福」があるというのか。たとえ不具であろうとも、この世の光を見せたい、親がそう願って、誰にも差別や迫害を受けずに生きられる世界であってこそ、全ての人々が幸福を追求できるのではないか。
 でも、そんな世界は幻想でしかない。

 「蛇女」の桜は、元は腰と腰が繋がっていたシャム双生児だった。
 片方の桜が死に、切り取られて一人になった。
 一コマではあるが、その切り取られたもう一人の桜が、合掌し、闇に消えていくカットを近藤さんは描いている。
 それは近藤さんの優しさであり、『五色の舟』が漫画として優れている象徴的なカットであると思う。もっと大きくコマを割ることもできたと思うが、ごくささやかに描かれたのは、グロテスクになるのを避けたという判断もあろうが、生きることを認められなかった死者への慈しみがあったからだろう。
 近藤さんの、こういう漫画の描き方が好きだ。 

  『五色の舟』のカバーには、舟に乗っているかたわものたちの疑似家族の姿が描かれている。
 しかし、こちらもあっさりとした描線を用いていて、彼らがかたわものであるとは一見するとよく分からないような描かれ方がされている。
 それは書店の店頭に置かれることを考慮しての最大限の譲歩をした上での措置だろう。
 けれども、そのシーンはマンガのラストシーンと同一のものであり、そこには「両手を得た」主人公・和郎のこういうナレーションで締めくくられている。

 「こちらの世界のかりそめの自分が死んだら、また心はあそこに戻っていくという確信めいた想いから僕らは逃れられずにいる。色とりどりの襤褸(ぼろ)をまとったあの美しい舟の上に」

 そう、元の世界(それはすなわち我々のこの世界であるが)もまた、決して醜い世界ではなかった。彼らはもちろん迫害されてはいたが、自分たちのコミューンを、あの舟の上に作り、育てていくことができていた。健常者が見ればただのぼろきれをかぶった舟でも、彼らにとっては美しい、色々でいいじゃないかと胸を張って言える、小さくとも優しさに満ちた、豊かな世界だった。
 だから、和郎の、桜の本当の魂は、世界を渡った後も、あの舟の上にある。

 原爆が落ちなければ。

 それは、原爆が落ちなければ、たとえ同じようにアメリカの属国になっていた世界でも、幸せになれた世界だった。やってきたのは日本人の平均的な体格よりはるかに勝っていて、並んだ写真で昭和天皇の小ささを強調した暴君のマッカーサーだったが、それでも原爆さえ落としていなければ、強者に阿っているだけなのに、それを正義と自ら錯覚させる現代日本人の歪つな精神は形成されなかっただろう。
 それがこれまでのやたら「日本が勝っていたかもしれない」架空戦記物やパラレルワールドSFと本作とを画する一番の要因になっている。

 セカイを渡る「機能」として設定された人牛の「件(くだん)」。
 「おふたりをどういった世界にお連れしましょうか」と家族たちに語る彼に向かって、牛女の清子が叫ぶ。
 「和郎が学校に行けるところ!」
 桜が、それを遮って叫ぶ。
 「みんなも! ほかのみんなも幸せに!」
 こんなにも美しい祈りと願いのこもったことばを、他の戦争マンガではついぞ読んだことがない。

 江戸川乱歩『踊る一寸法師』やトッド・ブラウニングの映画『怪物団(フリークス)』では、かたわものたちは健常者からの迫害に耐えきれず、復讐に走る。
 しかし、『五色の舟』のかたわものたちは、祈ったのだ。みんなが幸せになる世界を。みんなが共生できる世界を。みんなが愛し合える世界を。
 五色の舟に乗っていた家族たちは、不具なからだを恨まず、世間の迫害にも耐えて、その過程の中で、救いや幸せは「祈る」ことでしか、奇跡を望むことでしか叶えられないと悟ったのだ。

 そう、これはフィクションの中でしか叶えられない世界だ。
 人の心の美しさは、フィクションの中にしかないのだ。
 五色の舟に乗っていた彼らは幸せになれるが、色とりどりの襤褸を汚いものとしか判断しない「私たち」は決して幸せにはなれないのだ。
 そのことを悟った上で、生きていくしかないのである。
 これは、幸せになってほしい家族が、幸せになる「物語」である。
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