「楽しめる」というのはひとつの能力だと思うが、何でも楽しめる人(そういう人がいたとして)というのはニセモノでも楽しめるのだろうか。誰でもいつかは目が肥えて真贋の区別がつくようになるわけで、そのときに果たしてニセモノでも楽しめるものだろうか?
同じジャンルで楽しさを維持するには、そのジャンルに詳しくなっていく方向でしかありえない。ところが、詳しくなればなるほど本物とニセモノの区別がつくようになる。そのときに、ニセモノを楽しむのは難しいだろう。たとえば音楽でも絵でも、退屈でつまらないものに感じるだろう。パロディ的に楽しむことは出来るかもしれないが、きちんと正面から楽しむことは出来ない。
そのジャンルに詳しく無い人には、そのジャンルのものが何であれ新鮮さからそれを楽しめたりすることがある。水石に詳しくない人にとっては、山のような形をした石がお盆に乗って飾ってあったら、その石がどんなものであれ面白く思えたりするかもしれない。ジャズに詳しくない人には、ジャズピアニストの早弾き技術を、ただそれが早いというだけで楽しめるだろう。クラシックに詳しくない人には、目の前でオーケストラが鳴ってるだけで楽しめるのではないか。
しかし、最初の新鮮さをそのまま持ち続けることは困難だ。なので、新鮮さが「楽しさ」に結びついてる人にとっては、飽きたら楽しくなくなるだろう。そういう人は次から次へと新しいものに手を出すしか楽しさを見出すことは出来ない。
何でも楽しめる人というのは、要するにそのジャンルに深入りしない人なのではないか。深入りせず表面だけなぞっていけば大抵のものは新鮮にみえるし、楽しめるだろう。しかしこれは何でも楽しめる能力といえるのだろうか。
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