三「河内型戦艦は日本初の弩級戦艦ではあったが、中途半端な設計でドレッドノートの意
義を理解しきれていないものじゃった。そういう意味では過渡期の戦艦と言える」
金「河内型戦艦が竣工したのが1911年ですが、この頃になるとイギリスだけではなく
ドイツやアメリカなどでもドレッドノートよりも強力な超弩級戦艦というのが登場し
てきマス。これ等の欧米新鋭艦と比べると河内型戦艦はどうにも見劣りしました」
三「海軍は1906年にあの悪名高い、『八八艦隊計画』というのを提出している。これ
は戦艦8隻と装甲巡洋艦(巡洋戦艦)8隻を主力とする艦隊整備計画だったが、当時
の日本の国力では実現は到底無理で、国家予算全てを注ぎこんでも出来ない、という
シロモノだった。海軍はこれを通そうとしたのだが、さすがに通らなかった」
金「それでも海軍は艦隊増強計画をしつこく要求しマース。その間にも欧米の新鋭戦艦は
どんどん進歩したので、そもそも艦の設計がまとまりませんでした。結局、最終的に
は自力建造を断念し、当時の同盟国イギリスに造ってもらうことになったのデース」
三「それが金剛殿じゃな。日本の議会でもすったもんだあってようやく1910年に建造
予算が通った。建造の依頼先はワシを作ったヴィッカース社じゃ」
金「依頼を受けたヴィッカース社は大変な日本びいきでした。その原因は何と言っても、
日本海海戦で旗艦を務めた三笠。自分達が造った艦が活躍して世界海戦史上最高、と
言える完全勝利をライバルであるロシアに対して演じたことにありマース」
三「設計はヴィッカース社の軍艦設計部長ジョージ・E・サーストンが行った。イギリス
の軍艦設計にはイギリス海軍出身の政治家などがやたらと口を挟む。海軍の大先輩で
あり、サーの称号を持っているような人間の言うことなので無碍にするわけにも行か
ない。そういう意味でイギリス国内向けの艦だと、自分達の思うような艦が造れなか
ったりした。日本からの依頼だとそのようなことは無く、自分たちが贔屓にしている
日本向けということもあり、ヴィッカース社の持てる最新技術が惜しまず使われた」
金「この辺りは完成後、イギリス議会でも問題になったそうデース。何故他国向けの艦の
ほうが、自国向けよりも明らかに強いのか?ということで追及されたそうデース」
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