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2017年05月21日22:38

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氏邦様ー!小田原に戻ってー!!

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 先週の日曜日に埼玉県寄居町で行われていた「寄居北条まつり」に行ってきました。
 
 寄居町には日本100名城に指定されている「鉢形城」があります。
 1476年に関東管領上杉家の家老、長尾景信(ながおかげのぶ)の嫡男である長尾景春(〜かげはる)によって築城されたとされ、その後、北条氏邦(ほうじょううじくに)によって現在の縄張りになったとされています。

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 100名城に指定されているだけあって、関東の市街地にある城址にしては比較的遺構はよくのこされています。
 写真は笹曲輪と本曲輪を隔てる土塁。
 確かに遺構はよく残っていますし、発掘復元整備も良好にされています。
 これで生活道路が縄張りのど真ん中をぶった切っていなければ、最高だったんですけどね(笑)

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 伝御殿曲輪に繋がる食い違い虎口。
 今回、北条まつり用の花火の為に、伝御殿曲輪に入る事は出来ませんでした。

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 三の曲輪と伝諏訪曲輪を隔てる空堀。
 笹曲輪にあった縄張り図を見ると、水堀だったようなのですが、詳細は不明。

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 発掘、復元作業がされた三の曲輪の土塁上から見た、逸見曲輪。
 写っている石垣や土壁は復元されたものです。
 逸見曲輪は、氏邦の家来である逸見氏の屋敷があったとされている曲輪です。

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 鉢形城の縄張りは、荒川とその支流である写真の深沢川が合流する場所の断崖上に造られており、見た目以上に攻略は難しかったのではないかと想像しました。
 実際、豊臣秀吉の小田原征伐際には氏邦が3000名程度の城兵と籠城し、約一ヶ月の攻防戦でも落城はしませんでした。
 縄張りの広さから想像してみると、氏邦は城域でも荒川と深沢川に挟まれた、比較的狭い場所に戦力を集中して守っていたのではないか、と思いました。

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 荒川対岸側(寄居町市街地側)から見た鉢形城(伝御殿曲輪)。
 川べりはこのように断崖絶壁になっており、こちら側から直接攻略する事は不可能でしょう。
 実際、小田原征伐の時も、豊臣軍の主力は反対の西側に展開したようです。

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 で、1時過ぎから河川敷で「寄居北条まつり」が行われました。
 簡単に言ってしまうと、小田原征伐の際に城に立てこもり孤軍奮闘した氏邦を称える祭りなのですが・・・
 ここで、祭りを見た正直な感想を書きますね。

 はっきり言ってグダグダでした。
 おらが町の町おこし祭りを、大河ドラマ誘致のため(ひいては観光のため)に、役所や政治家が無理やり大事にしている感は否めませんでした。
 攻防戦の前に役所前から大名行列が行われるのですが、それぞれの大名は「協賛企業」の「お偉いさん」が演じ、周りの足軽はやる気のない社員や学生ボランティアがダラダラと歩く。
 JA職員が扮した真田昌幸軍など、六文銭の陣旗より「JAローン」や「JA共済」の幟の方が多いほど。
 人によっては、自分が扮している武将の名前すら把握していない始末。
 オープニングセレモニーも「地元議員」の到着が遅れて始まらないし、見学していてなんだかなぁ・・・という気分になりました。
 祭りはいいんですよ。
 手作りなのもいいんですよ。
 大河ドラマも大いに結構。
 でも、その三つを強引にむずびつけて強引に盛り上げるのはどうかと思いますね。

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