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2018年06月20日16:08

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牧野剛氏の墓所は濃尾平野の突き当りにあった。

 1960年代の後半のある日、畏友の須藤勝彦氏から、私たちの後輩、堀田英樹氏(当時現役の学生)が面白い店でバイトをしているから一緒に行かないかと誘われて、今池商店街からほど近い「壺」という飲み屋へ行った。
 
 そこのママさんが個性的で面白い人で、その人と堀田氏などを巡る話をしだしたら長くなるので端折るが、その店のカウンターで、まだ学生服を着た(私も2年生ぐらいまでは学生服だった)現役の大学生が飲んでいた。どうもバリバリの活動家のようであった。

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 どういう経緯だったかはともかく、気づいたらその学生と須藤氏との間に大論争が展開されていた。学生服の彼がいうには、あなたたちがだらしなかったから今日の状況があるということで、それに対して須藤氏は、そんなことは関連がない、問題は「今日の状況」といわれるものが何なのかを見つめることだと反論していた。

 こんなふうに書くと私自身は蚊帳の外のようだが、学生服の彼がいう「あなたたち」の中には須藤氏と行動をともにした60年安保世代の私も当然含まれることからして、のほほんとしているわけには行かなかった。
 ただし当時、私は故あって、須藤氏とも一定の距離をとっていたので、割合冷静にそのやり取りをみていた。

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 で、その大論争の結末がどうなったかというと、論争で決着が着かなければ決闘以外はないだろうということで、もう夜中を回っていたがそれが実施されることになった。
 まさか、夜半に、街なかで乱闘騒ぎもということで、東山の名古屋大学構内でということになり、そこへと出かけることになった。総勢4人、決闘の当事者、須藤氏と須藤氏側の立会人、かくいう私、そして学生服の彼とそちらの立会人、酒井氏(後のかわな病院院長、理事長)。

 その学生服の彼こそ、牧野剛という男で、後に、私が今池で飲食店をもって以降、かなり濃密な関係を持った男であった。
 決闘の成り行きを書かねばなるまい。
 それらしき芝生の広場に着いた私たちは、どのようにそれを執り行うかもわからないまま、立ちつくしていた。
 牧野氏側の立会人、酒井氏の飄々としたもの言いが功を奏した。
 「まあ、いっぺん坐ろうか」
 四人は車座になって坐った。

 酔いはすっかり醒めていた。
 誰からともなくとつとつと話が始まった。
 なぜ、私たちはここにこうしていなければならないのか。
 私たちは状況とどう切り結んできたのか、あるいはこなかったのか。
 いろいろ、万感迫るものがあった。
 牧野氏が文字通り声涙下る語りをはじめた。
 私たちそれぞれがそれに応じた。
 話は夜が白々と明け初めるまで続いた。

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 これが、学生服を着ていた男、牧野剛と私の最初の出会いであった。
 それ以降、その「壺」という店で時折会ってはいたが、とくに関係が濃密になったのは、70年代の前半、私が脱サラ(脱落サラリーマン)をして、今池の地で居酒屋を開店してからであった。

 そのころ牧野氏は、当時の三大予備校のひとつ、河合塾の人気講師であった。
 と同時に、予備校そのものが活気のあった時代で、その講師陣には、いわゆる「全共闘崩れ」が名を連ね、「公教育なにするものぞ」との気概に満ちていた。
 彼はその中心にいたといって良い。
 彼は、講師として著名であったばかりではなく、受験生のたためのアイディア(例えば、ベーシックコースや大検コースである「コスモ」などの創設)を提案し、実現させた。

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 と同時に、各種社会運動にも積極的に取り組み、活躍した。
 当時の革新市長といわれた本山氏を中心に、名古屋五輪是非が問われた市長選では、自民党から共産党までのすべてが五輪実現で一本化されるという異常事態の中で、牧野氏は、五輪反対の旗幟を鮮明にし、無名の同志を擁立した。結果は、本山氏28万826票に対して、6万3533票と17.5%(他に反対を表明した候補の得票も含めると20%強)であった、自民、民社、社会、公明、共産のオール与党体制のなかではいわば大勝利であり、果たせるかな、次期開催地決定のIOC総会では、名古屋はわずか30%台の得票で破れた。
 こうして、住民無視の政財官主導の五輪誘致は潰え去ったのだが、この運動の中心には彼がいた。

 これを先頭に彼の関わりあった社会運動は多岐にわたり、また無党派の声を集約するための各種選挙にも積極的に関わった。

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 先に見たように、牧野氏と私の関わりは、私が河合塾の本拠地の近く、名古屋の今池に飲食店をもつに至ってより密接になったが、彼は、塾のスタッフや同僚の講師たち、時には塾生たちとよく店を利用してくれた。

 彼の功績のひとつに、河合文化教育研究所との関わりがあるが、その特別研究員である錚々たる学者諸氏を紹介してくれたのも彼であった。精神医学の木村敏氏、フランス文学の中川久定氏、歴史家の谷川道雄氏、数学者の倉田令二朗氏、哲学者の廣松渉氏(順不同、故人も多い)などが私の店を訪れ、中には常連として個別に来てくれた人もいた。
 それらの人たちとのカウンター越しの会話で学んだことも多い。いわゆる「門前の小僧」である。

 こうして彼との付き合は半世紀を超えたが、惜しむらくは一昨年の五月、それ以前からの闘病生活の結果、帰らぬ人となったことだ。
 
 彼とは、冒頭に述べた「壺」という店で肩を並べて飲んだ事もあったが、記憶に新しいのは、晩年、やはり冒頭で述べた彼の決闘相手の須藤氏宅で、毎年正月に行われた勉強会での何回かの出会いである。

 この席には、彼と須藤氏の他、それぞれの介添人、酒井氏とかくいう私、それに「壺」でバイトをしていた堀田氏と、あの決闘事件の当事者五名すべてが顔を揃えていたのである。運命のめぐり合わせといおうか、まことに稀有なことではある。
 この勉強会での論争はあったが、もちろん、決闘に至るようなものではなかった。

 その五人うち、須藤氏は牧野氏に先立つ一ヶ月前にその生を終えている。また堀田氏は、さらに前に他界している。寂しい限りである。

 ところで牧野氏と私だが、その考え方や行動に対して、私なりの批判があり、そうした面では一定の距離があった。
 しかしである、気がつけば私は、例えば市民運動レベルなどではいつも彼と行動をともにしていた。そして、その行動力には常に敬意をもっていた。容易には語りえないが、対象化される思想など以前に、通底するものをもち合わせていたのだろう。

 その彼の墓所は岐阜市の北西のはずれ、濃尾平野の突き当りともいっていいところにある。
 この19日、梅雨の晴れ間を縫って墓参に訪れた。花などが絶えてはいまいかと持参したが、やはり訪れる人が絶えないと見えて、まだ枯れきっていない花が手向けられ、缶ビールが供えられていた。

 持参した花をそれに加え、かなり減っていた水を取り替え、折からの30度の暑さに、「頭髪の薄い(ない)君にはとりわけこたえるだろう」と墓石にたっぷりの水をかけてやった。
 持参した線香を手向け、しばし瞑目した。

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 彼の墓石のほかの写真は、彼が毎日見下ろしている風景、それに彼の背後の墓石群などである。
 こうして彼の墓石の前に立っても、なぜか「安らかに眠れ」という感慨は湧いてこない。それだけ、彼の阿修羅のような生涯は強烈であったし、今更それを無に帰すような幕引きはしたくないという思いが私の中にはある。

 彼と最も多く共に過ごした今池の街を、ときおり訪れる。
 今でも、その辺の横丁から彼が現れるような気がする。現れてほしい。
 晩年、彼はほとんど飲まなかったし、飲めなかった。でももう、健康だの医師の指示などは必要ないのだから、心ゆくまで痛飲して語り明かしたいものだと思うのだ。


これを書いていると、彼との思い出が次々にたち現れるのだが、もうじゅうぶん長くなってしまって、それらは割愛せざるを得ない。続きは、私がそっちへ行った折、「そういえばあんなこともあったなぁ」と語り継ぐとしよう。




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