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2017年09月25日01:17

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ユリイカ臨時増刊・総特集=蓮實重彦

 
大量の文字による圧倒感はあっても、これまで自分がもっていた蓮實観はあまり変わらなかった(初学者は必読だろうが)。「わたくしだけが気づいた」小説や映画の細部を突きつけることは基本的にはブラフを機能させるし、否定が論法となるし、読者は「排除と選別」の乱打から、自ら排除されないような保身までしいられる。そうした精神操作的な強圧(これが売れる理由だ)をきらう者が80年代中盤からふえた点はけして等閑できない。別言すれば「凡庸」の属性のひとつが相対比較だとかつて蓮實さんはしるしたが、蓮實さん自身が相対比較の陥穽にはまっていると感じたことが、敬意の衰退につながったのだ。蓮實さんの愛読者の多くは「凡庸」だ。あるいはハスミ語の「事件」は一回性の強調であっても、やはりバブリーな虚言、ブラフではないのか。そのことと、映画を描写する文のうつくしく活劇的な映画性、記憶力の怪物性、あるいはカノン化や観客の組織力が誰よりも優れていることは別問題だろうし(テマティスムはそんな彼の資質を利する必然)、一方で個人的にはその残酷なエレガンスが笑えて好きだったりもする。そんなどっちつかずに冷や水を浴びせる好論文が二本あった。城殿智行と郷原佳以。この二人は対フーコー、対デリダの視点から、蓮實さんの(操作的な)臆断、再帰的循環論理の矛盾を剔抉している。逆説的な言い方と映るかもしれないが、この二論文によって本増刊は価値をもつ。ほかにも『「赤」の誘惑』以降の蓮實さんのフィクション論の恣意性をちらつかせる論文や、「ソシュールのイマージュ」が根拠薄弱とする論文もある。ぼく自身、「テクスト的現実」よりもテクストを対象にした関係の網目のほうがより重要だとおもうのは、以前『「ボヴァリー夫人」論』の感想に書いたとおりだ。だがバルトの「作者の死」と抵触するが、蓮實さんの「人間」こそが本当の核心なのだ。皮肉はあるが含羞のないひとなのか、いまだに判断がつかない。特異化した含羞が誰よりもつよいと結論できれば、やはり尊敬に値するのだから。それを示唆した教え子のエッセイも数多くあった
 
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