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2017年04月29日16:35

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作品を読む  タニス・リー『闇の公子』を読む

 『ダークファンタジーの女王』、とまで称されたタニス・リーの作品である。題名にもなってる「闇の公子」とは、妖魔の王アズュラーンのことを指している。このアズュラーンは超絶的美形にして、能力はほとんど無限。無双とかいうような生ぬるいものではなく、むしろ絶対神に近い。

 この美形の魔王を軸に、幾つもの物語がオムニバス形式で描かれるのだが、このアズュラーンの性格が問題なのである。無慈悲にして残酷、そして気まぐれで美しいものを好みプライドが高い。で、この無慈悲にして残酷な魔王の気まぐれに、卑小にして非力な人間の運命が翻弄されるさまを色々な挿話で描いていくのである。

 最初はその理不尽なまでの超越性に腹が立ったのだが、翻弄される人間の運命の悲劇を読むのが段々面白くなってくる。「面白い」とは、こういう楽しみ方もあったのか、と思わず感心させられた。考えてみればギリシア時代などは、ハッピーエンドの物語ではなく敢えて『悲劇』というものを好んでたたわけだし、ファンタジーだからといって、いつも竜とか魔王とかを剣や魔法で退治して姫と結ばれてめでたし! みたいな話ばかりとは限らない。

 そういえば昔、僕に「火の鳥は理不尽だ」と言った女性がいた。僕は、「いや、それは火の鳥の理不尽さではなく、運命というものの理不尽さを描いているんだよ」と答えたが、あれと同じと考えるべきだと思い返してようやく納得がいった。もっとも、『火の鳥』では火の鳥は能動的に人と関わらず、妖魔の王は恣意的に人間を翻弄する、という差異はあるが。

 つまるとろころだがアズュラーンは、キリスト教の神ヤーヴェの持つ理不尽さをそのまま持っている。逆説にではあるが、『闇の公子』を読むと、キリスト教の神がいかに悪意的で理不尽かがよく判る。が、この理不尽な妖魔の王も、「美しいものを好む」という一点で人間を救うことがあり、その「美しさ」をめぐる悲喜劇がまた読みどころでもあるのだ。

 しかしそれにしても、男性読者はこの物凄く美しい者と、物凄く醜い者の両極端ばかり出てくる世界に目がくらまないだろうか。僕は最初、くらくらした。24年組の少女マンガを愛し、生粋の腐男子だと自負する僕ですらくらくらする世界だ。ちょっと普通の男性読者ではついていけないかもしれない。

 しかし考えてみれば、美しさと理不尽、というのは、つまるところ24年組の隠れた(あるいは明示的な)テーマだったかもしれない。そこにはジェンダーの主題がある、ということを示唆する。つまりそれは女性性というものが歴史的・社会的に美醜という価値基準に強度に振り回され、望む望まないに関わりなく外部から干渉されるという点において理不尽な運命を引き受ける、という境遇を意味するのである。

 その意味での女性性というのは、ある意味ではフェミニズムなどの思想的問題に還元できない次元をはらんでおり、社会的立場を改善する、などという施策ではまったく解決できないような社会的制度を明るみにしてしまうのである。難しいのは、「美醜」という価値基準が女性にとって桎梏であると同時に、アズュラーンが超絶的美形であることからも判るように、女性自身がその「美しさ」なるものを好む傾向があるという矛盾を同時に孕んでいるというようなことである。

 この妖魔の王アズュラーンの理不尽を読んだとき、恐らく大方の男性読者は「こいつを退治する方法はないものか」と考えるのではないだろうか。だが、物語はそういう直線的な力線を辿らず、この妖魔の王は絶対的にして理不尽な力をずっと振るったままなのである。つまり、この妖魔の王の存在それ自体が、一つの主題、いや一つの『好まれるモチーフ』と考えるべきなのだ。

 以前から僕は疑問に思っていたのだが、『悪魔の花嫁』という人気漫画がある。超絶美形の悪魔に魅入られ、強制的に婚約者にされたヒロインの物語なのだが、物語は段々、「ある種の間違い」の犯したと見做される人間が、悪魔その他の力によって悲劇を辿る、というオムニバス形式の物語に変わっていくのである。

 これを読んだとき、「何故、これが面白いのだろう?」と随分疑問に思ったが、この『闇の公子』で凝縮された形を読んで、ようやく納得がいった。作品が「何を目指しているか?」というのは、非常に重要なもので、例えば恋愛系の少女マンガなら、「胸がキュンとする恋愛中の感情」というのを表現する、ということがその主眼にあるわけである。

 『仮面ライダー』なら、「正義の味方が、悪者をやっつける」ことのカタルシスが最も重要である。あるいは手塚先生の作品なら『戦争、あるいは戦争を生み出すような社会や人間のエゴに対する倫理批判」というのが強固な主題として、受け手の僕らはその倫理的主題の深さ、困難さなどを「面白さ」として読むわけである。作品が「何を描こうとしているか」というのは、簡単なようでそう簡単ではない問題を多く含んでいる。

 無論、書きたいモチーフというのは単純なレベルには還元できず、物語は多くのモチーフをその中に内包してると考えるべきである。が、それにしても、僕が『悪魔の花嫁』を読んだ時の「判らなさ」は、簡単には理解できない難易度であった。しかし思い切って簡略化して言うと、「美形の悪魔に囚われる」というのは、一つの女性的な『欲望』なのだ。

 これをもってして、暴力でいうこときかせる乱暴な男が好まれる、とかいうような単純なことを言いたいわけではない。あるいは女性に、「被征服願望がある」と単純化されても困る。だが、一つの潜在的なモチーフとして、「囚われのお姫様」というものがある、という話なのだ。それは無論、「お話の中」だから許される話であって、現実にそうである、ということとは全く別次元の話だ。

 娘がポケモンを見てる様子を見ると非常に面白いのは、娘は完全にピカチュウに心情移入している点だ。つまり「ピカチュウ、つかまっちゃったね」なのである。そして「ピカチュウを返せ!」と、テレビの画面に向かって呼びかけるのである。ピカチュウは囚われのお姫様で、サトシはそれを救うナイトなのだ。

 案外、ナイトの方に肩入れしてるんじゃ…と思いきやそうでもなく、よくピカチュウその他の可愛い系のポケモンのオモチャを、カプセルとか網とかに入れてディスプレイしてたりする。つまり「ピカチュウ、捕まっちゃった」のである。そのモチーフが好きなのだ。

 それを拡大すると、『悪魔の花嫁』は「捕まったままのお姫様」の話だ。こういう、強引で理不尽で強大な、そして『美形の』悪魔に囚われたい、とちょっと夢見る願望が『悪魔の花嫁』にある。『闇の公子』にもある。前は判らなかったが、今回は根気強く『闇の公子』に取り組んだおかげで、これを「面白い」と思えるようになった。これは自身の感性と倫理感覚の拡大であり、読書における重要な成果の一つの形である、と思う。

 が、それにしてもこの絢爛な世界観を読んでると、つくづく24年組、とくに萩尾望都や竹宮恵子の作品を想起した。まあ、表紙絵も萩尾望都が描いているので、その感性の親近性は今更僕が指摘するようなことでもない。『闇の公子』は78年、邦訳は82年とあり、24年組のデビューはもっと早いので、影響関係は一方的なものでないのは確かだ。

 ただ興味深いのは、かたやイギリス人かたや日本人と文化も国も違うにも関わらず、意外なくらいその底にある感性に共通項があると思われることだ。この感性は、今のBLとはちょっと違う、もっと根深いところにある感覚と、複雑な多様性をがっちりと掬い上げているという感じがしている。
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