死はもはやどうにもなりません。ですからせめて死を貴重な教訓として生かしたいですよね。
少し昔の時代までは幼子の死はいくらでもありました。だから都会でも田舎でも等しく言われてきたのですよね。いわく、子どもは何をするかわからない、子どもから目を離すなと。ほんの数十年くらいの昔ですよ。今のおじいちゃん・おばあちゃん世代、またはお父さん・お母さん世代まで、危険は今よりずっと多かったんです。
ありふれた死がありました。それが最大の教訓になりました。人を警戒させ、災いから遠ざけてくれました。
今はいい時代ですね。子どもがたった一人死んでしまうだけでニュースになる。遺体はこうして家族の元に戻ることができる。
決して「起こるはずがなかった」なんていう事故ではないんだと思います。
ヒヤリ・ハットは数十倍、数百倍も起こっていると思います。現代のセキュリティが発達してるために悲惨な骸を目にすることがなくなっただけで。
辞書には今でも「野垂れ死に」「行き倒れ」「無縁仏」なんていう言葉が載っています。「それ」に一度も出くわしたことのない私たちですけれども。
野良猫や野良犬の死骸ですら、夏場あたりに放置されれば凄まじい臭気を発します。ヒトの大きさだったらどれほど凄まじいことになるのか、想像だけでも怖気がします。
嫌でも目にしてしまう時代は過去に遠ざかりました。
だから学ばない人はあたかも危険が最初からないかのように感じてしまうかもしれません。
せめてニュースを通じて想像し、悲しんで、痛みを疑似体験しないといけないのでしょうね。
悲惨な死がめったにないものになったことは幸せなこと。だけれど、頭を使わない個体にとっては厳しい時代でもあります。事故や事件が「そんなことが自分に起こるはずがない」ことになってしまっています。
でも宝くじには当たるつもりになっていたりするんですよね。頭を使わないということは悲しく、滑稽なことだなー。
ニュースでは遺体の様子など報道されることがありません。
現実の凄まじさは微塵も伝わってこないのです。
それでも現代に数少ない悲惨な死です。ぜひ活用して世の中に生かさないといけないと思うのです。
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■福井で発見の遺体、行方不明の3歳児 過って川に転落か
(朝日新聞デジタル - 01月20日 11:59)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=4951211
福井県警は20日、同県坂井市三国町新保の九頭竜川河川敷で19日に発見された男児の遺体は、昨年12月から行方が分からなくなっていた同県越前市の田中蓮(れん)君(3)と判明したと発表した。DNA型鑑定で確認した。司法解剖の結果、死因は低体温症か水死の疑いがあるという。県警は、目立った外傷がないことから事件性は低く、過って川に転落した可能性もあるとみている。
坂井西署によると、蓮君は昨年12月9日、越前市上太田町にある父親の勤務先の駐車場で、父親が車を止めて会社に立ち寄った約10分間に車内の助手席から姿を消した。今月19日に遺体が見つかった場所は、駐車場付近を流れる川から約40キロ下流にあたる。河川敷を歩いていた釣り人の男性が遺体を発見した。
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