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2015年07月26日07:25

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同志社大学へ行って村田学長を退陣に追い込む集会へ出てみた

午前中は家の用事であたふたしていたが、
午後から京都での懸案を済ませておこうと、妻を連れだって出かけた。

さして急ぐことでもなかったので、高速道路は使わずに下道を使って車を走らせた。
道中、なんでもいいから音楽を聴いていこう…と提案したら、
妻が、こんなCDを持ち込んだ。

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こ、こ、この暑いのに浅川マキか…

「いいじゃない、1970年前後のあの時代の息吹を浴びながらってのも。
 わたしゃ、仕事で追い詰められたとき、浅川マキの『淋しさには名前がない』を
 深夜にひとりどっぷり聴きこんで、あんたの甲斐性なしを恨んだのさ」

おいおい、なんなんだよ、それ…
おまけにジャケットは赤と黒のアナーキーな。
前の車も天井が黒、ボディが赤…。

四日市から国道421号で、永源寺へ抜ける。

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ずっと妻が運転している。
日差しが恐ろしく鋭い。

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鈴鹿の山並みを越えるときには、
外気温が34度だった…

永源寺→日野→水口→信楽→南郷へ

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琵琶湖から溢れ出た夏の水が、瀬田川で狭まるとものすごい水量になるが、
この南郷洗堰あたりから、さらに滔々とした流れになって、一気に宇治川へと落ちていく。
瀬田川、宇治川…と名前を変えるが、なんのことはない淀川のことである。

水量がベラボーに豊富なので、水嵩は沿道の滋賀県道3号とほぼ同じほどの高さにまでくる。
その県道3号をどんどんくだって宇治方面へ。

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そのまま県道3号で天ヶ瀬ダムを回って宇治市の平等院脇へ出ようと思ったのだが、
妻は途中で道を間違えた。なんだ、自分で平等院へ寄りたいと言っていたくせに…。
まぁいいや、そのまま京滋バイパスの笠取ICから乗って、宇治東ICで降りた。
京都外環状線に合流し、六地蔵から京阪電鉄の「墨染駅」へ抜ける深草のくねくね道を走る。

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深草の丘の住宅街を進む抜け道なのだが、すれ違いには気を遣う。
妻の豪快な運転でグングンと進む。冷汗が出てきた。

墨染駅前の交差点で右折。そのままどんどん北上すれば、本日の目的地だ。
ほどなくして伏見稲荷に到着。

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我が家は、商売繁盛のお稲荷様なのである。
その事情は、いままでも何度も日記で触れたとおりだが、
今年はなまけていて、2月の初午の時期に来られなかった。
そこで本日、お札を納めに参ったのでございます。

外国人観光客だらけだった。
なかには、歩かされたのが予想外にキツかったとみえて、
境内の日陰で完全グロッキーの金髪青年たちがゴロンと…
京都の蒸し暑い夏を舐めたらアカンぜよ。でも、日射病には気を付けろよな。
アーカンソーあたりの田舎道に放り出されるより日陰があるだけマシじゃないか。

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浴衣姿のおねいさんたちも大勢行き来して、
彼女たちにカメラを向ける中国語圏の観光客も…

最近じゃあ、雅楽奏者や巫女さんのフィギュアがキーホルダーお守りになって売り出され、
一体1,000円で飛ぶように売れていたのを目の当たりにし、
こういうアイディアを売り込んで、伏見稲荷といっしょに儲けりゃええな…と、
本気で思ったのだった。買ってくるのを忘れた。写真を撮るのも忘れた。
不埒だと思われるかもしれないが、共存繁栄なら大方ゆるしてくれる神様なのだ。
なにしろ本気で宝くじ必勝祈願を御祈祷してくれるからね、ここは。5,000円〜払えば。
1億当てて、3千万円くらい寄進して、朱色の大鳥居でも建てて進ぜましょう。
煮えたぎる頭では、その程度のことしか考えつかなかった。

どこへ行っても、外国人観光客が木陰にかくれて死んだようにぐったりしていた。
まことに気の毒である。

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よくよく御礼して辞去する。

今日の目的は達せられたのだが、時間もあることだから…と、
たまたま、本日は午後5時から、同志社大学で集会があると、
マイミクさんから伺っていたので、寄ってみようということになった。

東福寺→青蓮院前→五条清水寺下…と東大路を北上する。

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京都大学の楽友会館前。
38年前、この楽友会館に同級生と共に1泊したことがあった。
父親が京大の理学部OBという友人が、誘ってくれた京都旅行の宿泊所だった。
大正時代に建ったにしては立派な情趣ある西洋建築だった。
かれは、2浪して念願の京都大学の建築学科に入学が叶った。
現役で入っていれば父親にその晴れ姿を見せてやれたのだが、
浪人勉学中に父親を亡くしたので、さぞかし無念だったろう。
卒業して入った半公営企業の都市計画部で心身を酷使し、
真面目な性格もたたって、今ではすっかり病んで療養しながら定年を待っている。
望んでもいないのに、人生には、どうしてこうもいろいろあるんだろうか…
ここを通過するたびに、かれのことを思い出す。

そのまま北上して百万遍交差点を左折。今出川通へ。

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出町柳で鴨川を渡った。
北を見ると、高野川と鴨川の三角州「鴨川デルタ」だ。

8月のお盆の時期には、このあたりの河原は、大文字焼き見物の人で埋め尽くされる。
悪病退散の暑気払いしたり、亡くなった人を迎えたり送ったり、
京都はこうした信仰習俗を軸にぐるぐるまわっている不思議な街だ。

間もなく河原町通りを横切って御所裏。

右手に同志社大学。烏丸今出川の交差点で右折して北上。
この烏丸通沿いにはコインパーキングはないので、しばらく北上したら、
左手の室町小学校の裏手に入る。その西辺りで安いパーキングを見つけたので駐車。
数時間停めても1,000円打ち切りだ。そこから、今出川キャンパスまで散歩する。

同志社大学の新町校舎に出た。
高校時代、受験勉強というものを一度もしたことがないわたしは、
6つ年上のいとこが同志社大学の法学部に通っていて、
京都の学生生活は面白いぞと言われていたので受けてみた。
試験会場が、この新町校舎だった。
1時限目の英語の試験早々にヘルメットをかぶった学生たちが、
ものすごい音量のスピーカーから、
「君たちはなぜこの不正はびこる大学を選ぼうとするのか…」に続いて、
アジ演説を延々と展開し始めたので、集中力を完全に欠いたわたしは、
「そうは言うけど、あんたらは、ここの学生じゃないの?」などと考えているうち、
すっかりやる気をなくして、みごとにかれらヘルメット学生の主張する軍門にくだり、
当大学を不合格になったのだった。もとより合格するはずもなかったのだろうが、
寒い寒い2月の某日のあの大音量は忘れがたく我が青春の思い出になっている。

懐かしい新町を歩いたあとで、室町通に出た。

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露地の奥から機屋さんが生地を織るシャトルの音がカシャカシャと聞こえてきた。
まだまだ家内制工業で小さくやっているところがいくつかあるのだ。

通りには、祇園祭を終えたばかりの倦怠感が漂っているふうだった。

そこから東へ折れて、烏丸通へ向かう。

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目の前に今出川キャンパスが見えてきた。
京都には、路地のそこかしこに、こうしたお地蔵さんがいる。
8月末には、このお地蔵さんを祀る「地蔵盆」が催される。
祇園祭や大文字焼きが、どちらかというと外向きの大きな行事であるのに対して、
地蔵盆は、観光客には入ってきてほしくない、地付きの庶民が楽しむ祭事なのだった。
これが済むと、京都のせわしない夏もやっとしまいやなぁ〜、となるのである。

烏丸通に出た。目の前に、本日の集会の会場になる良心館が見えた。

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横断歩道を渡ってキャンパス内に入る。
この大学に営業をしかけていたのが15年ほど前だから、本当に久しぶりだ。
そのころには良心館はなかった。

妻は、昨年まで、全国の大学を訪問して留学生のあっせんをサポートする仕事をしており、
関西の主要大学の事務局をほとんど回っていたので、同志社にも寄っていたそうだ。
わたしより学内の地理に明るいので、手を曳かれて歩いていく。

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良心館という新設の校舎の地下へズンズン降りていく。
勝手知ったるキャンパスのようだ。
そこの売店でコーヒーを買って、奥の学食内で休む。
今日は、この学食の上にある104号教室で、集会があるというのだ。

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タイトルは「『安保法案』を考える同志社緊急集会」となっているが、
実質は、同志社大学の村田晃嗣学長が、
7月13日に開かれた衆議院平和安全法制特別委員会において、
「安保関連法案」=「戦争推進法案」に賛成を表明したことに端を発する、
学内外有志の怒りの抗議行動だった。

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日本の大学において初めてあからさまに「戦争推進法案」に賛同した学長として記憶され、
同志社大学の伝統と学風を著しく穢した恥ずかしい男になってしまった村田晃嗣学長。
本来は学生に暴力ではなく知性ある行動を教え、学生の生命と権利を守るべき立場にいる、
学長という立場の者が、自称「外交評論家」というタカ派の岡本幸夫と同調して、
みずから進んで「安保関連法案」を擁護したことに、学内から猛然と怒りの声が起こった訳だ。

かねがね、「たかじんのそこまで言って委員会」などで、
大っぴらに右旋回を宣揚し、権力の集中を説いてきた村田晃嗣。

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文部科学省が、大学内の最終決定権を学長に集めよと強制的に指示している現状は、
村田晃嗣学長が、日ごろから、こう発言している内容と通底する。

アメリカの大統領に権限が集中するのは、
議会に権限をもたせると議論がバラバラになって、誰が責任を取るのかあいまいになり、
結局、何も決められないままに多事争論で終わり、行政の空洞化を引き起こすからだ…と。

大統領の独裁が怖いのではなく、議会の暴走の方が怖い。
大統領の場合は、暴走したら誰が悪いことしていたかが分かるからチェックがかかるが、
議会というのは集合体だから全体が無責任になる。
そちらの方が危険だというのがアメリカの憲法を作った人たちの基本的な考え方だ、と。

わたしに言わせたら、そんなことは枝葉末節のことで、
元々連邦制をとって始まったアメリカ合衆国では、専制政治をもっとも恐れて、
相互監視のためにも三権分立の考え方をヨーロッパから輸入したはずだ。

それなのに、行政の決定のスピードが大切だとする考え方が、
憲法の根幹がもつ基本的な理念を超えてもいいというのは、
行政と癒着した立法府の独裁を意味するのではないか?

即決即断のプラグマティズムは、瞬時に株価が上下するマネーゲームには必要な理屈だが、
民主主義の原則は、あくまでも熟慮と対話と異論を認めるという前提である。

わたしは、そんな考え方をもって、この集会に臨んだ。

同志社平和の会というものを立ち上げた出原政雄という法学部教授がまず挨拶した。

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冒頭、かつて同志社大学で教鞭をとっていた鶴見俊輔氏が、
つい先日亡くなったことに対する追悼の意味をこめて、黙祷から始まった。
これはとてもいいことだった。学問の府として先人の知性への学恩を称えるものだ。
大学から知性という表現を抜いたら、存在意義を失うからだ。

最近、哲学の内田樹や精神医学の斎藤環などが、
繰り返し言うようになった反知性主義。
その蔓延が安倍晋三などのヤンキーを生みだしている…とかれらは語っているが、
知性の劣化が、短絡的にものごとを決めたがるくせを生み、
「中抜きでいいから早く結論を」という焦りを助長して、
「ごちゃごちゃ理屈を言うな」という排除をよしとする威圧的な権力を歓迎している、という。
大学は、こうして失墜する一方の知性をもういちど鍛え直すところかもしれないが、
なんだか心もとない。

出原教授も、こうした反知性主義の蔓延を恐れる人のひとりだったが、
同志社大学では、「安保法案」が違憲であり、「戦争法案」だという明確な主張を
運動として打ち出してこれなかったことを忸怩たる思いで語りながら、
今後は、京都大学や立命館大学とも連帯を組んで、法案廃止へ向けて共闘したい…
と結ぶと同時に、同じ法学部から村田晃嗣学長の学問的姿勢に疑問が投げかけられた。

いささか棒読み調で頼りない感じがした。

次に登壇したのが、社会学部の板垣竜太教授(42)。
朝鮮史が専門だという。

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出原教授と同じように、同志社大学全体で反安保の動きを作れてこなかったことへの
反省を口にしたが、このたびの村田晃嗣学長の件で反旗を翻すことになったと語る。
今回の「安保法案の成立に反対する同志社大学教職員有志」を立ち上げた発起人だ。

集団的自衛権の行使が明確な憲法違反であることを語った後、
村田学長が、憲法違反かどうかの判断は差し置いて、国際情勢の変化という観点から、
安保法案に対して明確な賛意を議会という公的な場で表明したことを、
心から恥ずかしく思う…と強い口調で語った。

その理由はこうである。

政治的な立場が立憲主義に優先する国家は、かつての戦時中の日本と同様である。
戦時中に朝鮮半島から留学してきた詩人の尹 東柱(ユン・ドンジュ)は、
初め立教大学に入学し、ほどなくして同志社大学に移る。
しかし、そこで治安維持法で逮捕され、同志社大学としてはかれを助けることができぬまま、
獄死させてしまった無念が「恥ずかしさ」として残っている。
そんな経験を繰り返さないためにも、村田学長の発言をその「恥ずかしさ」の再現として、
重くとらえなければならないと語っていた。

つづいて、女性ラガーのようなガッシリした体躯の先生が登壇。

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京都96条の会の代表であり、「慰安婦問題」には強い発言で臨む、
フェミニズム問題の闘志・岡野八代教授。
上野千鶴子さんと一緒に迫られたら絶対に勝てそうにない風貌だが、
そんなことはどうでもいい。
何しろ、つい先日の7月1日、日本で初めて「フェミニスト」という名称が付いた研究所を
同志社大学の中につくってしまったご本人だから、いま、旬な人だ。

憲法99条からすれば、安倍晋三も村田晃嗣も国務義務違反の裏切り行為だ…。
そもそも村田のズルいところは、政治的発言は個人の研究者としてしているというが、
世の中はどう考えたって同志社大学学長の発言として捉えるに決まっている。
逃げを打つのはやめてもらいたい…。

時間が限られたなか、いっぱい仰りたいことがあったようで、
結局、何を語りたかったのかよくわからなかった。残念。
しかし、意外にイイ女なのかもしれない…と妻に囁いたら、
「彼女、指輪をはめてなかったわね。ジェンダー研究者って辛いのよ、オホホ」だと。
よくわからないリアクションだったが、怖かった。

つづいて同志社大学の4回生の学生さんが2名登場し、
なかなか鋭い発言をしてくれた。

つぎに語った京都大学のある教授は、自分たちが発信している以下の声明書を読み上げた。
この先生の名前は失念してしまった。

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戦争は、防衛を名目に始まる。
戦争は、兵器産業に富をもたらす。
戦争は、すぐに制御が効かなくなる。

戦争は、始めるよりも終えるほうが難しい。
戦争は、兵士だけでなく、老人や子どもにも災いをもたらす。
戦争は、人々の四肢だけでなく、心の中にも深い傷を負わせる。

精神は、操作の対象物ではない。
生命は、誰かの持ち駒ではない。

海は、基地に押しつぶされてはならない。
空は、戦闘機の爆音に消されてはならない。

血を流すことを貢献と考える普通の国よりは、
知を生み出すことを誇る特殊な国に生きたい。

学問は、戦争の武器ではない。
学問は、商売の道具ではない。
学問は、権力の下僕ではない。

生きる場所と考える自由を守り、創るために、
私たちはまず、思い上がった権力にくさびを打ちこまなくてはならない。

(自由と平和のための京大有志の会)


同志社中学校の2名の教員も発言した。
生徒から、「先生、ぼくたち、本当に戦争に行かねばならなくなるの?」
と聞かれるのがつらくて仕方がないが、我ら教員は、絶対にかれらを戦場にはいかせない…
と、必死の思いで訴えて、聴衆の胸を打った。
このへんは、学問研究を仕事とする大学教授とは、言葉の迫力がまったく異なっていた。

立命館大学法学部の植松健一教授が登壇した。
訛りや仕草のなかに名古屋人的なものを発見したので、妻がスマホで調べてみたら、
案の定、名古屋大学出身だった。どうでもいいことだけど。

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しかし、中身は濃い話だった。
すでに立命館大学は、法学部で一致団結して、安保法案の撤回を求める意見をまとめていた。
立憲政治のルールと、それへの信頼を破壊する安倍晋三を糾弾し、
法の専門家たちの意見を無視・軽視した法案の進め方に抗議して立ち上がったという。
併せて、同志社大学も立ち上がって連帯して欲しいと呼び掛けていた。

10分間の休憩が入った。後ろを振り返って見たら、ずいぶんたくさんの聴衆が集まっていた。
軽く100名は超えていたに違いない。

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その後、登壇したい人、マイクを持って自由発言したい人、さまざま現われて、
思いのたけを次々に語っていく。いいじゃないか、久しぶりに言論の場を味わった。

1970年卒業のOB、1971年卒業のOB…
すなわち、1968年〜1970年までの学園紛争の渦中にあった団塊の世代だ。
どうにもこうにも現在の大学の在り方、大学生の社会への闘争心の希薄さに我慢ならず、
「えっ!? 現在の同志社大学に自治会はないの? 自主解散しちゃったの?
 じゃあ、もう一回作ったらいいじゃないですか!? 自分たちの権利だよ。」
「ゼネストやれよ。ゼネストって言ったってわからないか…」

それに対して、学生もいろいろ言う。
「同志社大学の良心っていいますけど、それって何なんですか?
 ぼく、村田先生の授業を受けてますけど、国際社会での政治的なバランスのなかにも、
 良識が生きる場があるって学んでますから、村田先生を糾弾するのはどうかと…
 上の世代の方の言う良心って、村田先生の語るリアルな社会認識に勝てるんですか?」

すると、同志社中学校の教員が立ち上がってマイクを握って、こう説得。
「同志社大学の建学の良心とは、そうした国際社会のバランスとか口触りのいいことに
 誤魔化されず、どんな条件が課されようとも、戦争で国際紛争を解決する手段としては、
 永久にこれを放棄するということの意味を不断に問いつづけることです」

中国からの留学生だという男性の発言もインパクトがあった。

「わたしは、いわゆる反日愛国教育を受けてきた者ですが、
 なんか、中国の政治体制にも日本の歴史認識にも違和感がありました。
 学校では日本の非道を叩き込まれるのに、家に帰ると『ドラえもん』にワクワクする。
 それで実際に自分の目で日本を見たくなってやってきました。
 おかげで日本人の友人がたくさんでき、なかにはわたしを通じて中国に関心をもち、
 中国に留学する人も3〜4人出てきました。べつに、中国と日本の橋渡し…
 のような大げさなことを言うつもりもありませんが、政治的な違いはあるにしても、
 相互理解を深めていけば、仮想敵国に中国を選ぶなどという愚かなことも、
 なくなっていくのではないでしょうか。そのためにわたしはみなさんといっしょに、
 平和活動をしていきたいと思っていますから、みんなで頑張りましょう」

この流暢な日本語を話す頭のよさそうな青年は、万雷の拍手を持って受け入れられた。
妻の脇を通るときには、妻は思わず彼の手を握っていた。目頭が熱くなった。

わたしは、この大学の出身者でもないし、
自分の母校にすら愛校心など持ち合わせてはいない輩だから、
バイアスのない立場から、非常に客観的にこれらの議論を聞いていた。

談論風発とまではとても至らない、京風の柔らかい意見交換会になっていたが、
出席者全員の怒りの核心は、「安保関連法案」の衆議院強行採決と、
違憲とわかっていて進めていく安倍政権の非知性的な愚行だ。
戦前もそれら愚行を止められずに、戦争に突入してしまった過去を学んでいるだけに、
同じことを繰り返そうとする政府のあまりのバカさ加減に当惑しているのだろう。
しかし、良心の大切さは、ひとつの運動エネルギーとして温存しておき、
具体的にどう倒すかというリアルな戦術に話を進めなければならない時期だと思う。

帰る時間もあったし、妻が「腹減った」と眼で訴えるので、
20時前には教室を中途で辞去することにした。

すでに通路のほとんどの照明は落とされ、
どうやって出るのか少し迷ったけれども、
歩くことはできた。

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床には、嵌め殺しのガラス板があって、なかに石なんぞが見える。
プレートを読むと、「中世相国寺の塔頭、鹿苑院遺址」。
こういうところが、京都だなぁと感心しながら、外へ出た。

妻が先に出て待っていたが、ハリス理化学館の薄暗がりへ手招きする。
なんだろうと思って、彼女が立ち止まったところに寄ってみると…

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あぁ…これが…尹東柱(ユン・ドンジュ)の碑か!

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詩集「空と風と星と詩」から  『序詩』

死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱なきことを、
葉あいにそよぐ風にも
わたしは心痛んだ。
星をうたう心で
生きとし生けるものをいとおしまねば
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば。
今宵も星が風に吹き晒らされる


同志社大学文学部に在学中の1943年7月14日、ハングルで詩を書いていたことを理由に、
独立運動の疑いで逮捕され、裁判の結果、治安維持法違反で懲役刑を宣告され、
福岡刑務所に投獄され、1945年2月16日に獄死したユン・ドンジュ。

この詩碑は永眠50周年の記念日(1995年2月16日)に、
同志社校友会コリアクラブにより建立されたという。

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「一点の恥辱なきことを」

思いがけず胸が詰まった。

今先ほど、教室で記録をとっていたボールペンを
わたしもまたこの碑の前に捧げた。

同じことが繰り返されようとしていることの恥ずかしさと、
理不尽な恥辱を受けねばならなかったユン・ドンジュの無念とが、
重くわたしの胸を衝いてきたのだった。

このとき初めて、薄っぺらい面相の村田晃嗣学長が身にまとうコジャレたスーツ姿が、
気色悪い権力のユニホームのように思えてきたのだった。

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