この週末(2018/10/13)、親に便乗して奈良に旅行した。
人生の三分の一ほど京都に住んでいたし、修学旅行でもおなじみのつもりだかったが、いやはや奈良はまだまだ手薄だ。
今回は桜井で集合、安倍文殊院、聖林寺、大神神社、長谷寺と、親父がレンタカーしてくれて回れた。
とんちきさんらに世辞をいうわけではないが、本当に奈良は素晴らしい。
京都の文化というのは、実態はともあれ、現在の我々に続く「むかし」に見える。
具体的に言えば、平安時代の寺や仏像は、鎌倉・室町を経由して21世紀の我々に直結するように感じられる。
ところが奈良は違う。飛鳥はもとより、白鳳・天平の寺や仏像が「エキゾチック」に見えるのは、言い換えれば「他者」に見えるということだ。
この「他者」性こそ、古代の魅力であるように僕は思う。同じ人類でありながら、類推を拒む異物として立ち上がる古代に僕はとても引きつけられる。神々しいとは、理解できないものを含むからこそ感じるものかもしれない。たとえば聖林寺の十一面観音は、どこか不気味さや非人情を湛えて、美しくある。
そんな白鳳・天平の佛像や建築を見ていると、実は平安や鎌倉だって他者ではないかと、ふと思う。安定した造形で親しみやすい鎌倉仏、たとえば文殊院の快慶の文殊菩薩や善財童子にも、計り知れない他者性が潜んでいる。自分が勝手に背負っていると思っている「日本」の同一性がゆさぶられる。それが心地よい。
そんな異文化体験(こう書いてしまうと薄っぺらいが)をさせてくれるのが奈良だ。
それにしても、20年ほどがんばって身につけた漢学の無力さを思い知らされた。
いやー読めない。漢学者泣かせ。でもそれもまた心地よい。
などと、大神(おおみわ←これも読めない)神社でお山の方を見つつ、古代日本に思いをはせた。
期せずして仁徳陵の学術調査のニュースが!箸塚古墳も調査できればいいのに!
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