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2016年07月27日03:29

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障害者がこの世からいなくなればいいと僕も思っている

■身柄確保の男「障害者なんていなくなればいい」 相模原
(朝日新聞デジタル - 07月26日 06:43)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=4111259


「障害者がこの世からいなくなればいい」と、僕も思っている。

多分この言葉だけを聞いたら、多くの人が誤解するだろうと思う。
僕のことを、暴力的で、排他的で、利己的な考えの人間だと思うだろう。


僕は、先天性の遺伝子異常による皮膚病を持つ、いわば障害者だ。


その上で「障害者がこの世からいなくなればいい」と思う理由を書くから、願わくばそれを読んだ上で僕という人間を判断して欲しい。

先天性魚鱗癬という、遺伝子の劣化によって起こる病気があって、それは遺伝子の病気だから一生もの、つまり死ぬまで治らない種類の病気。

だけど、実際死ぬほど重篤な病気じゃないし、手足が動かない、人工透析が必要な人ほど生活への制限もないから、難病指定もされてない。

要は様々な病気全般と照らして「軽い」とされる部類の疾患。

この先天性魚鱗癬とはどんな病気なのか。

言っちゃえば

「肌がちょっと汚い」

それだけだ。

だけど子供たちが先天性魚鱗癬の子供を見て「バケモノ」「妖怪」「怪物」と呼ぶには充分な特異点でもある。

端的に言って僕も周囲の子供たちから「怪物」と呼ばれて、いじめられたり、誂われたり、「人間以下の劣等種と接するような態度」で周囲から扱われてきた人間。

とはいえ、たかがイジメ。

命が危険に脅かされるほど重篤な「危機」とはいえない。
だから多くの人は軽く考える。

「誰だって、いじめられた経験くらいあるよ。そんな経験をした人は世の中に沢山いるよ。君だけじゃない」と。

一体どれだけの人が、物心をつく以前の幼少期から自分自身を「バケモノ」と定義して、その定義に縛られて生きてるだろう。

化物と呼ばれたくないから、お風呂で必死で垢をこすって、何時間もかけて、血が出るまでアカスリで皮膚を擦り落として、多少マシな状態に整えても、人より何倍も角化が早い僕の皮膚は、一日が経つ頃にはまた「化物」に戻ってる。

どれだけ皮膚を綺麗に整えても、翌日にはボロボロになってて、だから体育の授業や水泳の授業では大概クラスメイトから誂われる。

悔しいからその日の夜もまた何時間もかけて肌を擦って、垢を落として、だけど翌日にはまた。

「努力は必ず報われる」

ばかいうなよ。

努力をすればするほど、その努力が「完全に無駄」であることを、1日も欠かさず毎日突きつけられながらヘラヘラ笑って生きるのがどれだけ大変な事か、実体験として理解できる人がどれくらいいるだろう。

小学校2年の頃の担任は、俗にいう「優しい人」だった。

だから新学期が始まってすぐ、ホームルームで僕を教卓の前に立たせて服を脱がせた。

「見てのとおり、花田くんは皮膚の病気があります。皆とは違う肌をしています。だけどそれは肌だけ。これは伝染る病気でもないし、恐れるべきものでもないんです。皆と同じ人間なんです。だからいじめたりしないであげてください。普通にお友達として接してあげてください」

その瞬間僕はクラスで「特別な存在」になって、特別な存在は、多くの場合迫害の対象になる。

先生の好意は概ね裏目だった。

階段を降りてたらいきなり後ろから飛び蹴りされて突き落とされたり、いきなりゴミバケツを頭から被せられたり、便所に連れ込まれてどうのこうの、なんていうベタなイジメは日常茶飯事だったし、校舎に入ってから教室にたどり着くまで、顔も知らない別のクラスの子たちまで、ニヤニヤ笑いながら僕に罵声を浴びせにやってくる。


ある時、僕はバッタを捕まえて、足を一本ずつ千切る遊びを覚えた。
あと、トンボの羽を両方毟って、時に失敗してトンボの胴体が真ん中から割けたり。

ブルーハーツの歌にもある。

弱い者達が夕暮れ、更に弱いものを叩く
その音が響き渡れば、ブルースは加速していく

自分より圧倒的に小さく弱い存在をいたぶることが、自分の中で唯一の心の拠り所になっていった。

そこに楽しみや満足なんてもちろんない。
ただそれ以外の全ての瞬間があまりに苦痛だっただけ。
自分の痛みをひとときでも忘れるために、自分より弱いものを傷めつける。
そういう自慰行為。

僕が虫を捕まえて残虐な方法で殺す遊びに夢中なことは、僕が学校でいじめられてる事と同等に、PTAの議題になったりもした。

親御さん達はこう思っただろう。

ひどくいじめられて可哀想、だけど昆虫をニヤニヤしながら平気で殺すような子だから、ある意味当然の報いなのかもしれない、と。

幼少期から僕を散々甚振りまくってきた同級生たち、それを看過してきた大人たちに「当然の報い」は訪れたのだろうか。

世界はいつだって、素晴らしく不公平だ。

ある夜、急に殺した虫達にものすごく申し訳ないという気持ちがこみ上げてきて、僕の「遊び」で死んでいった虫達が可哀想になって、枕に顔を押し当てて、声を殺しながら「ごめんなさい。僕は悪い人間です。ごめんなさい。殺してしまってごめんなさい」と呟きながら泣いたのを、大人たちは誰も知らない。

そんな酒鬼薔薇街道まっしぐらだった僕も、月日が経って、どういうわけか「比較的まともな青年」へと育った。
多分少年漫画の影響だと思う。

少年漫画に出てくる主人公たちは、かっこよくて、優しくて、強くて、どんな時も挫けなくて、つまり「僕」とは正反対の人間だった。

僕はそんな主人公たちに心の底から憧れて、自分もそうなりたいと思った。
そんな主人公達の真似をするようになった。

つまりは、擬態だ。

高校の頃、クラスにいじめられてる子がいて、遠足の班決めの時、案の定その子はどのグループからものけ者にされて、一緒に行こうとさそうクラスメイトは誰もいなかった。

当時もう「ヒーローごっこ」が板についてた僕は、クラス中に聞こえるくらいのわざとらしい大声でこう言った。

「誰かをそうやってのけ者にしてさー、そういうのって超絶ダサくね?人間ちっちゃいなーと思うわ。俺はこいつと行くよ。うちの班に入れる」

「俺の班の人間」は呆気に取られて、誰も僕の提案に反対しなかった。

いじめられてた彼はホームルームの後、僕のところにやってきて、正義のヒーローを見つめる眼差しで僕に握手を求めてきた。
「花田くん、ありがとう」って。

だけど、そう、擬態。

別に彼が可哀想で、彼を助けたくて、手を差し伸べたわけじゃない。

単に「クラスメイトをのけ者にしてはしゃいでる脳ミソ腐った雑魚共の真ん中で、堂々とこういう正論を言い放ったら俺めっちゃヒーローじゃね?俺が主人公確定!」って思ったからそうしただけ。

心の底では、イジメとかする連中に感謝してた。

そういう「自ら三下雑魚みたいな悪役を演じてくれるアホ共」がいてくれるおかげで、僕がヒーローごっこをする場面は尽きなかったんだから。

ヒーローごっこをするのは気持ちよかった。
助けた何人かから感謝されたり敬われたりするうちに、段々自分は本当に特別な存在なんじゃないかと思いこむようになった。

「自分はマトモな人間だ。むしろ立派な部類の人間だ」と完全に思い込むことが出来た時、擬態は成功したと言えるんだろう。

もちろん僕の擬態は失敗に終わった。

十代の終わりに初めて彼女が出来て、その子とセックスした。
その子には肌の事、それのせいでずっといじめられてた事を告げていて、理解してもらってるつもりだったけど、セックスの時に僕の背中に手を回した彼女が「背中・・・がさがさしてるね」って言って、それは多分悪意のないただの感想だったんだと思うけど、その瞬間なんだか全部が急に熱を失って、どうでもよくなって、うんざりした気持ちになって、行為を中止して、そそくさと服を着て部屋を出る時の僕は、文字通り「怪物」みたいな顔してたと思う。

悪意のない彼女の一言だけど、当時まだ10代でナイーブだった僕の耳には「どれだけ擬態したところで、お前は結局化物なんだよ」っていうふうに聞こえたんだ。

先天性魚鱗癬は子供に遺伝する。
僕がセックスして、子供ができたら、その子供もバケモノになる、その確率が高い。

バケモノが生まれると解っていて「子作り」をするのは悪いことだ。

漠然とそう考えるようになって、セックスが嫌いになった。
厳密には、嘘だ。

僕は、愛する人と結婚して、子供を作って、家庭を築いて、それを守って生きていくことが、自分にとって無上の幸せなのだという事を、本当の深い部分では理解してる。

だけど、その事実を認めることは難しかった。
だって、僕は「まともな人間」ではなく、それを演じて擬態してるだけの化物だから。


公園で、見ず知らずの子供が笑顔で駆け寄ってくる。


僕はその屈託のない笑顔を見て、漠然と嬉しい気持ちになって、だから笑顔で返す。


僕と目があった少年は、その視線を少し下に落として、僕の肌を見て、こういう。


「うわー、ばけものだー」


僕は、ばけものなのか。


幼少期に刻まれる物事の判断基準というのは、多分皆が考えるよりも非常に強烈で深いんだ。
それはいわば呪いだ。

社会に出ても、仕事を長く続ける事が出来なかった。
仕事を長く続けて、身を固める事は、将来結婚して、家庭を守っていく上でとても大切なこと。

だけど僕は「化物としての自分の人生」が全く好きじゃなかったし、だから僕と同じような「糞な人生」がほぼ確定してる子供なんか絶対作るべきじゃないと思った。

結婚して、家庭を持つこと。
それは文字通りの意味で夢であり、つまりただの幻でもある、という感覚。

嫌な事にも頑張って耐えて、積み重ねて、成果を出して、立派な社会人になって、

で、

結局何も報われない、という感覚。

どんなに頑張ったところで、バケモノは、結婚して子供を持つことは出来ないから。

「いつか結婚して、家庭を築く前提で生きてる人達」とは、根本から違う。

彼らは人間で、僕は怪物。

どれだけ頑張っても無駄な事は存在する。
必死に手入れしても翌日には元通り「怪物」になってるこの肌が、長年かけて僕に教えてくれた事実。

頑張ったって無駄じゃないか。くだらない。アホくさい。

そういって、ちょっと嫌な事があると仕事を辞めて、またテキトーな仕事を探して、テキトーにこなして、飽きたらやめてを繰り返して、そうこうするうちに年だけ無駄に取って、次第に雇ってくれる職場も無くなっていった。

だけど、学歴も、職歴と呼べるまともな経歴がなくても、資格さえあれば雇ってくれる業界がある。

そう、介護業界だ。

圧倒的人手不足の介護業界は、僕みたいなろくでなしでも雇ってくれる。
だから2週間講座に通って、資格を取って、やってみた。

そこは別世界だった。

今まで様々な職種の仕事に手を出してきた。
飲食店、接客、新聞配達、工場内作業、警備員、営業、派遣、その他諸々。
汚い、臭い、辛いと言われる肉体労働や精神労働も色々。

だけど本当に、圧倒的に、ぶっちぎりだった。

介護業界の苛酷さは。

朝は契約上は8時半からだけど、7時半前に出社して、朝礼前に「施設の様々な準備」を行うのは、暗黙の強制事項だった。
無論契約時間外の労働分の給料は発生しない。
夜は18時には終わる契約だったけど、もちろん18時きっかりに終わることなんてまずない。
19時、20時になるのは当たり前。

この程度はブラックと呼ばれる企業ならありふれたもんだけど、無論こんなのは「前提」であって、苛酷さの本質じゃない。

お昼休憩は一応1時間ということになってるけど、お昼前に入浴介助があって、これがほぼ必ず30分以上時間が押して休憩時間に食い込むから、お昼休憩は5分しか取れず、立ったままロッカーでおにぎり一口頬張ってまたダッシュでフロアに戻るなんて事も日常茶飯事だった。

お年寄りや重度の障害者を扱うから、他の業界なら「ちょw気をつけてw」くらいで済む少しのミスでも、すごい剣幕で怒鳴られる。

少しのミスが利用者の命を脅かす事もあるわけだから、当然といえば当然。

仕事の間中、朝から晩まで、あちこちの部屋から動物園でよく耳にする種類のうめき声や怒鳴り声が聞こえてくる。

壁を延々殴り続ける利用者さんに食事介助しようとすれば、当然殴られる。
殴られながら笑顔で「たべてくださいねー」って言ってご飯を食べさせる。

この「殴る」っていうのは、「常識ある人間同士がじゃれあう」程度のものでは当然ない。
障害者の人の力がどれだけ強いのか、実際経験してみたら大概の人はびっくりすると思う。

「これ、ガチの、本気の暴力やんか」って。

でも、介護の世界ではそんなの当たり前。

誰かが大便を漏らして、その嫌に柔らかくて臭い汚物を処理し終わる頃には、別の誰かが小便を漏らす。

圧倒的に人手が足りないから、常に駆け足で、大急ぎで処理しなきゃいけない。
「当初の予定」とは違う問題が常に起こり続けて、だから「予定」は必ずずれ込んでいって、休憩は消滅し、帰宅時間は大幅に遅れる。

一つミスがあれば上記のようにものすごい剣幕で怒鳴られて、その後処理の為にまた仕事が増える。

その職場の誰もがそんな環境で働いてるから、皆常にイライラして、ピリピリして、誰かがミスすると怒声と陰湿な嫌味が飛びかう。

時給は、900円。
月給にして15、6万くらい。

利用者さんたちは、そんな苦労も知らず、好き勝手に歩きまわって、喚き散らして、彼らの要求にすぐ答えなければ余計に怒鳴って暴れる。

どれだけの人が正気を保ち続けられるだろう。

介護の現場に携わる人の7割以上が、精神に異常をきたして辞めていくと言われてる。

無論上記のような環境が全てとは言わない。
ちゃんと環境が整った施設もあるにはあるんだろう。
だけどこんな環境もザラにあるという現実。

体中に管を通されて、縛られて身動きの一切取れない利用者、
「治る」事は有り得ない種類の病気だから、死ぬまでその状態が続く。

そして本当に動物となんら変わらない奇声を朝から晩まで発し続けてる利用者の群れ。

同僚や上司には人格否定に近いレベルで罵られながら、常に駆け足で仕事をこなす。

70キロの人間が乗った車いす(車いす分の重量を入れれば当然もっとある)の両端を、二人で持ちあげて階段を昇るような作業もある。
うっかり落とせば当然タダ事じゃ済まないから、ものすごい神経を使う。無論肉体も酷使する。

そういう仕事が朝から晩まで休みなくずっとあるんだ。

そんな環境で働く同僚達は、今回の事件の犯人が書いた手紙にもあるように「みな精気のない顔」で。

繰り返すけど、時給は900円。
今はさすがに多少上がったけど、それでも1000円くらいのところはザラにある。
手取り20万にも届かない。

普通に、ノイローゼになる。
今夜、寝てる間に東日本大震災クラスのが東京にきて、あの施設まるごと潰れて無くなってくれないかな・・・って毎晩強く強く願ってた。

あまりのストレスで、体はめちゃめちゃ疲れてるのに眠れない日が続いた。
真っすぐ歩いてるつもりなのに体が勝手に傾いて、まっすぐ歩けなくなって、階段が登れなくなって、だけどミスは許されない。

僕はわりとすぐ耐えられなくなって辞めちゃったけど、3年も続けたら多分悟りが開けるか、もしくは頭がおかしくなると思う。

実際そこで働き続ける先輩の大半は、このどちらかだった。

菩薩のように自己犠牲とも呼ぶべき献身を惜しみなく続けられる人か、もしくはほとんどノイローゼと言っていいレベルのヒステリーで周囲に当たり散らすかのどちらか。

まともな神経では続けられないし、まともじゃなくてもクビに出来ないくらい人手不足が深刻な業界。

辞めたいという旨を伝えても、なんせ人手が足りないから、なんやかんや理由をつけて、説得されて、辞職は却下される。

それこそ大量殺人を企てて、その詳細を記した手紙をどっかしらに送りつけるか、僕みたいにある日ばっくれて二度と職場からの電話にも出ないようにするかだ。

人が、動物のようにキーキー金切声で鳴き続けて、
その傍らで、サイコホラー映画のワンシーンように朝から晩まで、一日中、一年中、死ぬまでずっとベッドに括りつけられて涙を流し続ける障害者、
目の前の便器で用をたす事も出来ない「体だけ立派に大人」な人たちの群れ。

その「立派な大人並」の力で、気ままに暴力を振るう利用者達。


「人」とは一体何なのか。


人間の遺伝子を持ってさえいれば、猿と同程度の知能でも、人?

お化け屋敷の蝋人形のように、拘束具で全身を縛られた状態のまま、死ぬまでの人生を過ごすのも、立派な人生?

人間を猿のように扱う施設の職員たち。

その中で、それでも「人間的な誠実な対応」をしようとすれば「そんな事に無駄な時間を割くな。どれだけ誠実にやったって彼らには何も伝わらない。とにかく合理的に仕事をこなせ。じゃないと終わらないし、終わらないと帰れないんだよアホ」と怒鳴られる。

ペットショップの「商品」達の方が、まだマシな扱いを受けてるとさえ感じる。

それほどまでに、人間性を封殺して事務的に管理しなきゃ、運営出来ないほどに切迫した人員不足と薄給。

「可哀想」と口では言いながら、入所以来一度も見舞いには来ない家族。

汚物で汚れた床を拭く際の洗剤を間違えれば先輩に大声で怒鳴られる。

彼らだって本当は、怒鳴りたくなんかないんだろう。

だけど誰も彼もがそこでは致命的に追い詰められている。


そして声が聞こえる


「ばけもの」


本当に狂っているのは、誰だろう。


僕は、この世界から障害者がいなくなればいいと思う。

誰もが、障害を抱えずに、全ての人が健康に生まれてこられたら、どんなにいいだろうって。

障害があっても立派な人生、困難に挫けず幸せになる権利は誰にでもある、と人は言う。

だけどそんなことを平気で口にするのは、どんな困難も乗り越えられる圧倒的強者か、
もしくは当事者になった事がない、妄想だけで理想論を騙りたがるインチキ野郎かのどちからだ。

今のところ、僕は「ばけもの」としての人生を愛せてはいない。
愛する努力は自分なりにしてきたけど、その努力が報われたとは現状言いがたい。

辛さと、悲しさと、寂しさと、虚しさを常に感じながら生きてる。

朝起きて、ご飯食べて、風呂に入って、着替えて、何かしらの行為(大概は不毛な行為)をして、うんこして、歯磨いて、オナニーして、また夜寝る(上手く寝付ければの話だけど)、その瞬間まで、絶え間なくずっとだ。

そんなあれこれに必死で耐えながら繋ぎ止めるだけの価値が、この人生にはあるのか。
いっそ死んで終わりにしたほうがよっぽど楽なんじゃないか。

もうこんな気持ちで生きてくのは嫌だと毎日思いながら、結局生存本能だけを頼りに、惨めに、無様に生きてる人間、じゃなくてバケモノ。

この世界から障害者がいなくなったら、どんなにいいかと思う。

何か画期的な方法で、あらゆる人のあらゆる障害を治療して、誰もが健康になれたら。

見た目がバケモノな人間も、大量殺人を犯す狂気のバケモノもいない世界がもしあったらどんなにいいだろう。

全ての人に、等しく公平に可能性が与えられる世界があったらどんなにいいだろう。

そうしたら僕は多分多くの昆虫を殺さずにすんで、僕に殺されなかった虫達はその羽根や足に花粉や種を絡みつけて、別の何かにそれを伝送して、何かしらの可能性がそこに生まれたかもしれない。

咲かなかったはずの花が咲いたかもしれない。

苦しみのない人生なんて味気ないと言えるのは、なんだかんだ克服できる程度の障害しか知らないからだ。

この不公平な世界を楽しめるのは、なんだかんだ「本当の意味で不運な側」を経験してないからだ。

ある日、イスラム系の過激派が村を襲って、大人も子供も全員縛り上げる。

そして子供達に告げる。

「自分の親を、お前自身の手で殺せ。それができればお前は生かして、俺の部下にしてやる。出来ないならお前の目の前で親を殺した後、お前も殺す。好きな方を選べ」と。

これは妄想でもなんでもない。
実際に中東で日常的に起きてる「ありふれた事柄」だ。

これが、本当の、現実の理不尽だ。

そんな悲劇の当事者になっても、あなたはあなた自身の手で親を殺す瞬間に「この世界は理不尽だけど素晴らしい」なんて思えるだろうか。

本当の狂気に晒されてなお、自分を見失わずにいられるだろうか。

この世界の残酷さを憎まずにいられるのは、その残酷さの餌食になったことがないからだ。


世の中には未だ知性的とは到底言えない側面がわりと結構あって、その至らなさによって苦しめられてる人が沢山いる。

あの凄惨な事件の犯人が、本当に障害者という存在を「嘲って、軽んじて」いたのなら、なぜ彼は養護学校の職員になろうと必死に勉強したりしたのだろう?

その夢が叶わなくてもなお、どうして介護の世界に携わろうとしたのだろう?

その過酷な世界でなぜ3年も働き続けたのだろう?

この猟奇的な犯人を偶像崇拝する気もないし、美化するつもりも毛頭ない。
彼は完全に狂ってるし、イカれてるし、何より考えが浅はかでバカだ。

だけどじゃあ、狂ってないものなんてこの世にあるんだろうか。

僕も、あなたも、この世界も、介護制度も、何もかもが歪んでいて、その歪みにひどく苦しめられている人間がいても大半は見て見ぬふりをする、この世界のどこに「まともさ」なんてあるんだろう?

誰かがほんの小さな間違いを犯して、暗い水が生まれる。

その暗い水は、普通の水と同様、高いところから低いところに落ちる。

最も低い地点に、多くの暗い水が集積して、悲劇が起きる。

誰もその「暗い水」の流れを止めようとはしなかった。

悲劇が起きる時、たまたま「底」にいて、暗い水を一身に浴びて狂気に染まった人間だけが「悪」とされて断罪される。

暗い水を産んだ人の罪は?

それが低所へと流れ落ちていくのを、ずっと見て見ぬふりしてきた人達の罪は?

誰も、その「自らの選択の責任」を取ろうとはしない。

誰もが「罪なき一般人」であり続けようとする。


弱い者達が夕暮れ、更に弱いものを叩く

最も弱いものに、全ての罪をおっかぶせて、叩く

本当に「狂ってる」のは一体誰だろう?

悲しい事件があって、本当に心から悲しいと思うなら、明日には忘れるんじゃなくて、何かしらの具体的な善処をしなきゃいけないんだと思う。

誰もが無責任という罪から目を背けて生きるこの世界ではどんな悲劇だって起こりうるし、
それは不運ではなく、予定調和の範疇だと思う。

誰も彼もが狂ってる世界で、起こるべくして起こった当然の悲劇。

僕は所詮擬態してるだけのバケモノだから、人類が清く正しい明日へ向かう具体的方策を示してあげる事もできない。

厳密にはバケモノだからとかそういう話抜きに、単にバカだからなんだけど。

実際のところ、僕の人生がパッとしないのも、バケモノだからとかじゃなく、単に自堕落で臆病だから。

本当に、我ながらろくでなしだと思う。

だけど悲しいことを少しでも減らすためには、僕自身も含めて、皆が物事についてもう少し真剣に、深く、ちゃんと考えて、心で感じて、何かしらを良くしてくために行動することが大事なんだと思う。

無為でも、不毛でもね。

どうせ無為だから、不毛だから、といって何もしようとしなくなった時、人は本当の意味でバケモノ、つまるところ「無自覚な狂人」になるんだと思う。

そして取り返しがつかない座標まで到達した瞬間、自分が自分自身を失った事に気づくんだ。
それは本当に悲しいことだ。

バケモノの、バケモノによる、バケモノ的思索が、ある種の人間にとって何かしら思慮の手助けにでもなればと思うわけです。
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