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2017年05月29日07:42

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王族のお仕事は処刑されること

ジェーン・グレイは15歳で女王の地位に就けられ、わずか9日間の在位で廃位され、16歳で処刑されてしまった「イギリス初の女王」です。

今でいえば高校1年生の女の子ですよ。

“血のメアリー”と言われた女王メアリーもさすがに彼女の処刑には躊躇したといわれますが、当時の政治情勢からジェーンを処刑しない訳にはいかず、やむを得ず処刑命令を出したとされます。

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この時期は、ほんとに王室は酷い状況になっている。だいたい元凶はヘンリー8世です。ヘンリーは結局6人の王妃を持っている。

■キャサリン・オブ・アルゴン

スペインのお姫様で、元々はヘンリーの兄アーサーの奥さん。ところがアーサーが急死したため、スペインとの関係維持のため、本人たちとの意志とは無関係に結婚させられた。

最初男の子を産むが夭折。そのあとメアリー(後の“血のメアリー”)を産む。しかしその後王子を産めなかったのと、メアリーがひじょうに聡明な娘であったことから、ヘンリーは法律を改定して女性にも王位継承権を与えることにし、メアリーを世継と定めた。

しかし内心は男の子が欲しいと思っていた。

そのためヘンリーは1533年にキャサリンと離婚してアンと結婚。キャサリンは幽閉されたが後に死亡している。巷ではヘンリーに暗殺されたのではと噂された。

キャサリンが離婚されたことで、メアリーは皇太子としての地位まで喪失した。

■アン・ブーリン

元々はキャサリンの侍女。やがてヘンリーの愛人にされ、ヘンリーはキャサリンと離婚してアンと結婚しようとした。ところがその離婚をローマ教皇庁が認めてくれなかったため、ヘンリーは教皇庁と断絶。イギリス国教会を設立してイギリスはプロテスタント国となった。

1533年に結婚したものの、アンが産んだのは女の子(エリザベス。後のエリザベス1世)で、王は落胆する。とりあえずエリザベスを皇太子に指名した。

1536年1月に前王妃のキャサリンが亡くなった。アンとヘンリーはキャサリンの母国スペインの習慣に合わせて黄色い喪服を着たのだが、黄色はイギリスでは喜びを表す色なので、王と王妃はキャサリンの死を喜んでいると人々に誤解された。

アンは再び妊娠するが、この時期、王はアンの侍女ジェーン・シーモアに関心が移動していた。ある日アンはそのジェーンが王と抱き合っている現場を見てしまい、ショックから流産してしまう。その胎児は明らかに男の子であった。もしこの子が生まれていたら、アンは平穏な一生を終えることができていたかも知れない。

しかし流産してしまったことから、王はアンに失望し、彼女を排除するため、不倫したという濡れ衣を着せる。その不倫相手とされたのは5人の男である。いづりもアンの近くにいた人物。

・ジョージ・ブーリン アン・ブーリンの兄。そのためジョージとアンには近親相姦の罪までなすりつけられた。
・マーク・スミートン 宮廷音楽士でアンのお気に入りであった。
・ヘンリー・ノーリス ヘンリー8世のトイレ係(貴人の傍に仕えてトイレの手伝いをし、お尻を洗って拭く係)
・フランシス・ウェストン ヘンリー8世の遊び相手(チェスなどの相手になる係)
・ウィリアム・ブレアトン ヘンリー8世の近習

彼らは1536年5月17日に処刑され、19日にはアン自身も処刑された。

■ジェーン・シーモア

元々はアンの侍女だが、ヘンリー8世に寵愛され、アンが処刑された後ヘンリーと結婚する。王子エドワードを産むが、産褥により死亡。

エドワードは「乞食王子」のモデルでヘンリーの死後王位に就くものの、身体が弱く、彼が若くして亡くなったことから、また血の悲劇が起きることになる。

■アン・オブ・クレーヴズ

キャサリンとの離婚や国教会設立などに強い影響力を及ぼしていた大臣トマス・クロムウェルの強い推薦で4人目の王妃となるも、ヘンリーとの相性は悪く、早々に離婚することになる。結果的にクロムウェルは国王の信頼を失い、処刑されてしまった。

彼女は後腐れ無く離婚できたので、無事平穏に一生を終えることができた。

■キャサリン・ハワード

元々はアンの侍女で、婚約した恋人(というより事実上の夫)フランシス・デレハムもいたのだが、ヘンリーに愛されて結婚することになってしまう。キャサリンはその元婚約者のフランシスを自分の秘書として雇った。

やがて2人の関係がバレてしまい、王の怒りを買う。本来は元々フランシスと実質結婚していたのだから、国王との婚姻こそ無効ということで平穏に婚姻解消になってもよかったのだが、当時はその抗弁が認められず、フランシス、そして2人の関係を手引きしていた侍女のジェーン・ブーリンとともに3人とも処刑されてしまった。
元々結婚していたのに勝手に横恋慕されて、その夫との関係を密通だと言われて処刑されてというのは、あまりにも可哀相である。

■キャサリン・パー

元々はジェーン・シーモアの兄トマスの恋人。ところがヘンリーに気に入られてしまい、国王はトマスを海外赴任させた上で強引にキャサリンを自分の妻にしてしまった。

ひじょうに頭がいい上に弁も立つ人物で、ヘンリーも彼女には説き伏せられてしまうことが多かったという。彼女の提言で、メアリーとエリザベスは王女の地位に戻され、王位継承権を復活させられた。また幼い王子エドワードの養育係にもなり、メアリー・エリザベス・エドワードの3人はいづれも彼女を慕い尊敬していたという。
ヘンリーは自分が亡き後は、引き続き王妃の格式で処するようにと遺言して亡くなったが、本人はヘンリーが死ぬと、さっさと王妃の地位は返上して宮廷を去り、かつての恋人トマス・シーモアと再婚してしまった。ヘンリーの3人の子供の内、エリザベスをキャサリンは自分の家に住まわせた。

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■エドワード6世の治世

エドワードは元々病弱でもあり、1547年に王位に就いた時まだ9歳で、とても親政できる状態ではなかった。政治の実権はジェーン・シーモアやトマス・シーモアの兄であるエドワード・シーモアが握った。

1548年、キャサリンがトマスとの娘メアリーを産んだ産褥で亡くなると、トマスは義理の娘であるエリザベス王女に自分との結婚を迫るも拒否される。そして自分の兄エドワードを排斥しようとして逆襲されて1549年に逮捕され処刑されてしまった。しかしそのエドワードもジョン・ダドリーとの権力争いに敗れて1552年捕らえられ処刑された。そしてその後のエドワード6世の治世下では、ダドリーが政治の実権を握った。

エドワード6世は亡くなる直前に、メアリーとエリザベスの王位継承権を無効とし、王位はジェーン・グレイに譲るという遺言を残す。そしてダドリーはジェーンを自分の息子のギルフォードと結婚させようと考えていた。しかし、エドワードの姉が2人いるのに、血縁の遠いジェーンに王位を継がせるというのには無理がありすぎた。

メアリーとエリザベスは身の危険を感じてロンドンをいったん脱出する。

1553年7月6日エドワード6世が亡くなると、ジェーンが7月10日新しい国王(イギリス初の女王)に就任したが、7月13日にメアリーもノーフォーク州のノリッチで国王に即位したことを宣言した。メアリーの元に多くの支持者が集まり、ダドリーが仕向けた軍はメアリーの支持者に撃破されてしまう。そしてロンドンに入ったメアリーは7月19日あらためて即位を宣言。ダドリー、ギルフォード、ジェーンは逮捕された。

ダドリーは8月22日、ギルフォードとジェーンも翌年2月12日に処刑された。

■メアリー1世の治世

敬虔なカトリックであったメアリーは父ヘンリー8世が行った宗教改革を全否定。イギリスはいったんカトリック国に戻ることになる。そしてプロテスタントに対する過酷な弾圧を行った。

そのため彼女は“血のメアリー”(Bloody Mary)と呼ばれる。

卵巣腫瘍によりわずか5年の治世、42歳で死去。

■エリザベス1世の治世

メアリーが亡くなった後は妹のエリザベスが25歳で即位してエリザベス1世となる。彼女はメアリーが行ったカトリック復古を取り消し、イングランドはあらためて国教会を柱とするプロテスタント国となった。しかし彼女は温和な宗教政策で人々の融和に努めた。

彼女の治世は45年にも及んだが、政情が比較的安定し、シェイクスピアなどに代表される文化が栄え、イギリスは繁栄の時代を迎えた。

■メアリー・ステュワート

ヘンリー8世の姉マーガレット・テューダーはスコットランド王ジェームズ4世と結婚し、その子供がジェームズ5世、その子供がメアリー・ステュワートである。つまりメアリー・ステュワートはメアリー1世やエリザベス1世の従姪にあたる。

彼女は父ジェームズ5世の急死で、わずか生後6日でスコットランドの女王となった。しかし政治的な情勢が不安定なため、フランスで亡命生活を送る羽目になる。

そして15歳になるとフランス王アンリ2世の王子フランソワ(後のフランソワ2世)と結婚する。同年イングランドのメアリー1世が亡くなると妹のエリザベス1世(処女王)が即位するが、アンリ2世は、エリザベスは庶子であり、メアリー・ステュワートこそが正統なイングランドの王位継承者であると主張した。

要するにフランスがイングランド・スコットランドをまとめて自分のものにしようという魂胆である。

1559年アンリ2世が亡くなりフランソワがフランス国王を継いでメアリーはフランス王妃となる。しかしイングランドはスコットランドでのプロテスタントとカトリックの争いに介入してスコットランドに駐留していたフランス軍を撃破。エディンバラ条約が結ばれて、フランスはスコットランドに介入することができなくなった。1560年フランソワ2世が病死。フランソワとの間に子供ができていなかったメアリーはスコットランドに帰国することになる。

しかしスコットランドでは権力争いによる混乱が続いていた。メアリーはダーンリー卿と再婚するが、彼の性格の悪さに辟易し、やがて宮廷音楽家ダヴィッド・リッチオに惹かれていく。

1566年3月9日、数人の貴族が宮廷に乱入し、リッチオをメアリーの目の前で殺害した。メアリーはショックで流産しそうになるも何とか持ち堪え、6月19日男児ジェームズを出産した。一応ダーンリー卿の子供ということにはなっているものの、本当はリッチオの子供なのではという噂が立った。

しかしそのダーンリー卿も翌年2月10日、何者かによって殺害されているのが発見された。そしてメアリーはボスウェル伯と再婚したが、この結婚には誰もが反対し、ふたりは拘束されて1567年7月26日、メアリーは廃位を宣言された。メアリーの後はまだ1歳のジェームズがスコットランド王となった(ジェームズ6世)。

メアリーは翌年軟禁先から脱出するとイングランドに亡命し、エリザベス1世に保護を求めた。エリザベスはこれまで度々エリザベスの王位の正当性を否定し、自分こそがイングランド王であると主張していた彼女を苦々しくは思ったものの、寛容に保護して、悠々自適の生活を送らせた。しかし1586年エリザベス暗殺未遂事件が起きると、それに関与したとしてメアリーに死刑判決が降りる。

エリザベスはメアリーの処刑には反対したものの、渋々処刑執行命令書にサイン。メアリーは1587年2月8日に処刑された。44歳。

エリザベス女王は1603年3月24日亡くなり(69歳没)、その後継にはメアリー・ステュワートの息子ジェームズが指名された。そのため彼はスコットランド王としてはジェームズ6世、イングランド王としてはジェームズ1世と呼ばれる。それ以降、イングランドとスコットランドは「同君国」となった。

ジェームズ1世(6世)は、イングランドの国旗セント・ジョージ・クロス(十字型)とスコットランドの国旗セント・アンドリュー・クロス(×字型)を合成した統一旗ユニオンジャック(米字型)を定めた。

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