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2018年05月22日00:02

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いずれこうなることはわかっていたはず、というよりも...

冒険家とも登山家とも、実際は下山家やないかとも言われてた栗城さんがとうとう8回目のエベレストで死亡した。
結局、一度も登頂することなく、その間に両手の指を9本も失って、最後は命まで失ってしもたわけやけど、栗城さんはこうなることがわかっていながら、死に場所を求めてエベレストに向かったのではないかと言う気がしてならない。

2回、3回の失敗なら運がなかったとか、計画が甘かった、経験が足りなかったと言える。
でも、7回も失敗したってのは、前提としてそのレベルに達していなかったと言うほかない。
野球にたとえて言うとするなら、草野球のエースを張り続けているに過ぎない選手が、プロ野球のトライアウトを毎年受け続けてるようなもんなんやないかな。
若いときはいいところまでいったこともあるかも知れないが、そのうち年を取り、故障まで抱えるようになってもなおいつかは合格すると挑戦し続けている。
あるいは、標準記録さえ満たしていれば誰でも出られるマラソン大会に、一発勝負で優賞したらオリンピックに出られるかもと思って出続けてる市民ランナーにも近いかも。

問題は、その無謀な挑戦をもてはやす無責任な人たちが居てしまったこと。
物のわかった大人や、その分野に精通しているベテランは若者の無茶な行動をいさめてあげなければいけない。
なぜ駄目だったのか、どうして無理なのか。
ちゃんと諭してあげるべきそうした人たちの声を押しのけるようにして、賞賛する人たちがたくさん出てきてしまった。
挑戦はすばらしい、前向きでえらい。
言うのは楽やし、受けもええわな。

そうこうしているうちに、栗城さん自身も退くに退けなくなってしまって、無茶な挑戦を重ねざるを得なくなる。
それでも4度目の失敗あたりまでは本人も可能性を信じてたかも知れないが、それからあとのはほんまに望んで登頂できると思ってたんやろか。
五体満足で肉体的にいまより若かったときですらできなかったことが、手指を9本まで失い、体力的にもピークを過ぎたいま、どうにかなると思うほうがどうかしている。
もしかすると、5回目からこっちは、登頂することやなくて、そこで死ぬことを目的にして、死に場所を求めてエベレストに向かってたんやないかな。

さすがに自分自身の限界は悟ってるやろし、このまま生きていくよりはエベレストに挑戦する途中で死んだほうがドラマとしては完璧な幕引きになる。
すべてをそこに賭けた人なだけに、そういう終わり方こそがふさわしいと思ったとは考えすぎやろか。
登山の途中でなく、下山の途中で息絶えたってのも、そういった意味では象徴的やし。
だからこれは悲劇やなくて、栗城さん自身がシナリオを書いた完璧な結末と考えたほうがええんとちゃうか思うねん。


登山家・栗城史多さん死去 エベレスト下山途中、遺体で発見
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=54&from=diary&id=5120079
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