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2017年01月27日14:06

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「この世界の片隅に」

 世の評価も定まったようなので、少し違う意見を書いてもいいかと。ちなみに公開直後の感想です。(ネタバレあり)。

 世間では絶賛一辺倒だけれど、私は少し違う。私にとって、これは「恐ろしい」映画だった。こうのさんの漫画も読んで内容は見る前に承知していたけれど、色が付いて、動いて、声も音も出て、画面も大きいアニメ映画の衝撃はそれとは比べ物にならない。
 クラウドファンディング出資者の一人として情報発信も宣伝もするし、実際良く出来た映画だとは思うけれど、他の誰かに対して「絶対見た方がいいですよ」とは言えない。言うのならば「覚悟して見た方がいいですよ」と言うだろう。
 何回も繰り返して見たり、すぐに感想をまとめられる人には、すごいなと感心するけれど、私とはメンタリティが違うのだろうと、ただそう思う。

 それでも、出だしのところは好きだ。子ども時代の主人公すずさんが舟で当時の広島の中心部、中島本町へお遣いに行く場面。
 映画の制作が本格化する前に広島をはじめ様々な場所で催されていた制作途中の素材の展示や、片渕監督の談話で既に馴染みになっている場面に出て来る、今は原爆で消失してしまった町の、建物の窓や柱や街灯や橋の欄干、川から岸に上がる雁木や、大勢の人の服装や、その他もう本当に沢山の物事のひとつひとつ、それら全ての色や形や位置や、それらをどうやって歴史と、戦禍を生き残った人々の記憶の中から掬い上げ甦らせたかを知っているから、実際に目に見えるものとして画面で息づくそれら全てのものが愛おしくて堪らない。その裏で払われた苦労などおくびにも出さず、ごく当たり前にそこにあるものとして、ほんの僅かな時間しか画面に映らないからこそ、それらを目に留めておいてやりたいと思う。それが原爆によって永久に失われてしまったものなら尚更。
 映画には原爆ドームになる前の、産業奨励館も出て来る。落ち着いた緑色の瀟洒な建物として。アニメーションでは基本的に画面上のものは全て等価だ。描かれたそれらは全て本物だ。CGの再現とはまた違う。広島の平和公園が元は町だったことは知識としては知っていたけれど、実際にこうして目の前に見ると格別だ。原爆で失われてしまったものの大きさがまざまざと伝わって来る。緻密な取材に基づいた再現には意味がある。柔らかな色彩も効果的だ。

 幸福で穏やかなすずさんの子ども時代は唐突な縁談で終わる。広島から呉の北条家まで家族で出向いての祝言。式が済んで家族は去る。右手前にすずさん、奥に小さく下手(しもて)に歩み去る家族を描いた構図が寂しげで心細く見ていてつらい。一人残った婚家ですずさんは食事の支度をする。初めての家で台所仕事をする遣りにくさは世の婿さんには分かるまい。最後はいつも笑いに転化されるので気づかないかも知れないけれど結婚生活はきつい。婚家の苗字で呼ばれても自分と気づかないし、今いる住所も分からない。ストレスで脱毛症になったりもする。子も出来ない。
 生まれ故郷の広島と嫁ぎ先の呉の間で揺れるすずさんにとても共感する。夫と口づけをする自分を客観的に見ているもう一人のすずさんがいるように、すずさんは自分が呉の北条になったことを受け入れられないのではないか。私も本当の自分は五味××ではなく富沢だと思っているし、私の母親もお姑さんも、本当の自分は旧姓の方だと思っている節がある。理屈ではなく。この感覚は世の夫たちには理解出来ないだろう。
 少女時代から続いていた戦争。しかし戦況は悪化し、日常生活を蝕んでくる。戦時下の庶民の暮らし自体はNHKの朝ドラでも毎年のように描かれているし、それまでの知識の蓄積があるので、特別とは思えない。でも、その程度が違う。野草を摘んで食卓の助けとする描写。原作漫画でも詳細に描かれているけれど、色と音と動きが付くとその程度がぐっと深まる。楠公飯など原作では漫画的表現としてああ描いているのかと思っていたが、アニメになると本当にあんな風にぷくぷくした炊き上がりになるのだと納得したものだ。
 軍港の町・呉は激しい空襲に曝される。この描写が恐ろしい。あんなに生々しく鋭いのは今まで見たこともなかった。敵機からの機銃掃射はさすが軍事オタクの、『BLACK RAGOON』の監督だけあって精度が桁違い。音も空気を切るよう。戦争は遠くの兵士がするものではなく、遠くから敵が自分を殺しに来るのだと肌身に沁みて解った。とても恐ろしかった。その恐怖も、撃たれたかに見えたお義父さんが実は疲労で熟睡してしまっていたという笑いに転化されてしまうから、この映画は一筋縄ではいかないのだけれど。
 画面の隅には年月日のテロップが出る。これが恐ろしい。刻一刻と6月の「あの日」に近づく。原作漫画にもあるあの板塀が見えた時、心臓をきゅっと掴まれたように震えた。いや、そのずっと前、母親(すずさんの義姉)に連れられて最初に小さな晴美が現われた時からずっと避けようもない事態の予感に苛まれていた。
 その瞬間は、恐れていた事態に反してアニメ的に処理された美しくさえある画面で描かれた。マクラレンや二木真希子さんのカリグラフを想起したりもした。アニメーションの特権だと思う。
 傷が少し癒え立ち動けるようになったすずさんは、無くした右手に包帯を巻いたまま他の人と一緒に働く。両足と左手だけで他の人と同じように兵隊さんの草鞋を編む。現在では考えられない、包帯も取れていない怪我人も労働に駆り立てられる異常事態が普通のこととして描かれている恐ろしさ。それもやはり片手では上手く編めない笑いに転化されてしまうのだけれど。
 晴美の命とすずさんの右手を奪ったのは空襲の際に地面に埋もれていた時限式爆弾。原作漫画と違う最新の考証で描かれたこれは、テロの時代を生きざるを得ない私たちも、いつどこで同じ災難に遭うか知れないということ。『この世界…』は遠い昔の、過ぎ去った話では全然ないのだ。この世界と今とは地続きだ。客観的になどとても見られはしない。
 そして昭和20年8月6日がやって来る。原爆の閃光は離れた呉にも届く。そしてしばらく経ってから突風が襲う。ああ、あの日、3.11のあの日もそうだった。私はたまたま群馬にいて、そこでは震度5強の揺れだったけれど、その地震の衝撃からしばらく経った頃に突風が吹いたのだ。映画の空があの日と繋がる。
 原爆ですずさんの母は即死、父は程なく亡くなり、妹は原爆症に倒れる。美人だった妹の腕に紫斑が幾つも浮いている無残さ。一読して怖ろしさに震えた同じこうのさんの漫画『夕凪の街 桜の国』の主人公が、その運命が脳裡に浮かぶ。
 すずさんと周作の歩く道の端をぼろぼろになった人たちが小さくよろめき歩いている。はっきりと描かれなくてもその人たちの状態が分かって息を飲む。極めつけは、すずさんたちが廃墟の広島で出会う原爆孤児の女の子の挿話。そこだけタッチの違うクレヨン画風に描かれ、油断していたら打ちのめされた。原爆で深手を負った母親が女の子の横で座ったまま死に腐り崩れ、母親だったものになり果てる容赦ない描写。原作漫画にもあるけれど、動くとより強烈だ。シラミの執拗な描写も凄かった。観たことを心底後悔した。『火垂るの墓』以上だ、これは。『火垂るの墓』は衝撃のあまり二度と見たくないと思い、実際必要が生じた時以外全く見ていない。この映画も再見までに時間が必要そうだ。多くの人がこの映画を手放しで良い映画だと絶賛するのが私には分からない。よく出来た映画とは思い、よくぞ作ったとも思うけれど、私にとってこれは覚悟のいる映画だ。

 作画の良し悪しが不思議なことに分からない。判断つかない。こんなことは初めてだ。細かくて丁寧ではあるけれど、いわゆる上手い動き、動きの快感といったものは全くといっていいほど見せてくれない。意図的にコントロールされているのだろう。例えば、すずさんが我知らず天秤棒で前後の人を薙ぎ倒してしまうコミカルなカット。これ、この映画に参加したアニメーターなら如何ようにも巧みに描ける筈。でも、そうさせない。これに限らず映画は、ほぼ必ず引いた位置のカメラで、人物のほぼ全身を写し、こうのさんの絵独特のプロポーションとちょっと歪なポーズをそのままに、ちまちまちょこちょこ動かしている。想像すると恐ろしくなってしまう程ものすごい枚数をかけて。アニメーターは作画していて厳しかったろうと思う。発散しないのだから。この動きはおそらく、こうのさんの漫画と、それに出来得る限り忠実であろうとした作画作業との化学反応の結果であり、片渕監督にとっては、同じこうのさんの絵を使った習作ともいえる小編『花は咲く』を経た成果とも言えるのだろう。この動きについて片渕監督は、一回あたりの動きの幅がすごく小さいショートレンジの仮現運動と称している。
 作画監督は松原秀典さん。『花は咲く』の原画も経験、自ら望んでの参加とのことだが、ハイクオリティアニメーションと謳われた『ああっ女神さまっ』や『サクラ大戦』の人だから持ち味とは勝手が違ったのではと思うが、なかなかどうして実証主義的な一面もインタビュー等で窺われる。ああ、松原さんだなあと思うところは幾つかあって、例えばすずさんの髪のたおやかさ。ところどころにあるすずさんのアップはちょっと美少女すぎて上手すぎて、これは違うと思ってしまうのだから申し訳ない。
 演出も呼応して特異で、ケレンのない引いた視点(客観的というのではない)を通している。例えば、原爆投下後の広島へ行くことを懇願するすずさんが皆の前で長い髪を切り落としてみせる場面。通常のアニメならここをひとつの山場として、カットを割り、アップも使い、観客の心に訴えかけるエモーショナルな演出で見せるだろう。だが本作はそうしない。引いたままのカメラですずさんの全身を捉え、ただそうあることとして他の場面と何らテンション変わらずフラットに描く。そして最後はいつもの笑いに転化してみせる。この気負わない演出と作画が相まって何とも不思議な、前例のない映画に仕上がっている。片渕監督の前作『マイマイ新子と千年の魔法』も『アリーテ姫』も全くこうではない。全ては、すずさんを実在する人と実感してもらう為というが。

 ふと思うに、この作品はとてつもなく分厚いオブラートに包まれているのではないか。その奥にあるのは苦くて鋭くて恐ろしいもの。大多数の人はオブラートのまま飲み下して、これを普通の人の当たり前の日常を描いた良い映画と感じ、懐かしさすら掻き立てられているのではないか。で、ごく稀にオブラートが早く溶けてしまう体質の人がいて、私のように、或いはずっと前に紹介したこれを観て体調を崩した人のように、強烈に恐ろしさを感じる人があるのではないかと思う。体質だから、どちらが上とかいうのではなく。
 私の場合、とにかく衝撃で、観終わった時に、自分が今どこにいるのか分からなくなった。映画館のドアを開けたらそこに広島の街がそのまま広がっているように感じて、しばらく動けなかった。予告編や特報であんなに泣かされたのに涙は全然意外なほど出なかった。
 観終わってからずっと、作中の「悲しくてやりきれない」ではなく何故か『かぐや姫の物語』の主題歌『いのちの記憶』の一節が頭に流れている。『かぐや姫…』を観た時も、その恐ろしさに「本当は恐ろしい『かぐや姫の物語』」という日記を書いたものだけれど、今回も同じ気持ち。巷では片渕監督をポスト宮崎駿とする説が流布しているけれど、違う。ポスト高畑勲だ。その冷徹さ、揺るぎない姿勢。とんでもない人材だ。
 ついでに言うと、すずさんが普通の、平凡な女性とも全く思わない。あれだけの絵の才、描くことへの熱情を持った女性のどこが普通な、平凡なものか。その非凡なすずさんが自分でも知らぬまに戦争に染まり、掛け替えのない右手(それは絵を描くすずさんのアイデンティティでもある)を失うからこそ、この映画の、戦争の非道さが浮かび上がるのだ。それすら悟らせずに、すずさんを普通の平凡な女性と見て取らせるところに、こうのさんや片渕監督の尋常ではない恐ろしさがある。

 それでも、こうして感想をまとめてみると心が少し落ち着いて、もう一度映画に向き合う力が湧いて来る気もする。映画のラスト、広島で拾われた陽子が、すずさんと義姉径子さんにとっての欠落を埋める存在になったように、最後の希望に賭けてみるのも悪くないかなと。
 すずさんが陽子に言う「そうよ、呉よ」の響きがとても好きだ。く「れ」と語尾を上げる呉の人特有の抑揚。のんさんの声の母性を含んだ優しい響き。たんぽぽの綿毛だったすずさんはこの時、呉に根付いたのだ。

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