ここに一冊の絵本がある。
原作はシェル・シルヴァスタインの『The Giving Tree』。
この絵本は日本でも、1976年に本田錦一郎さんによって、2010年にはあの村上春樹さんによって和訳され『おおきな木』として出版されていますが(余談ですが、私は本田さんの和訳が断然好き。たぶん本屋さんにも、図書館にもあると思うし、5分もあれば読める長さなので、もし興味を持たれた方は読んでみて下さいませ)韓国版では『惜しみなく与える木』として知られ、この訳が一番わかりやすいので、今回の日記のタイトルとしました。
あ、ちなみに日記は三部作、、、になる予定。
あくまで予定なので、どうなることやらですが
まず、絵本の内容。
知ってる方もいらっしゃると思いますが、知らない方のために、内容を紹介した文があったのでちょっとだけ。
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『惜しみなく与える木』(和訳:おおきな木)シェル・シルヴァスタイン著
昔、りんごの木があって、かわいいぼうやととても仲良し。
ぼうやは幹に登ったり、葉っぱを集めたりと、木と仲良く遊んできました。
時が流れ、ぼうやは成長して大人になり、木に会いに来なくなりました。
ある日大きくなったぼうやが木のところにひょっこりやってきました。
木は昔のように遊んでいくように言いますが、大きくなったぼうやは
「買い物がしてみたい。だから、お金がほしいんだ。おこずかいをちょうだい。」
と言います。
困った木は、りんごの実を売ればお金になると言って、与えました。
ぼうやはりんごをもぎとりみんな持っていってしまった。
木はそれで嬉しかった。
そして、ぼうやは木を利用することばかり考えるようになります…。
大人になったぼうやは家を欲しがり、木はその枝を与えます。
年老いたぼうやは船を欲しがり、木はその幹を与え、とうとう切り株になってしまいます。
自らを快く差し出す、おおきな木…。そして…、実・枝・幹と自分の全てを与え続けてきた、おおきな木…。
それでも最後は、
「きは それで うれしかった・・・ だけど、それはほんとかな。」
と結ばれます。
木の恩恵をただただ、受け続けてきた年老いたぼうやは、最後に切り株にだけになってしまったおおきな木の切り株に座ります。
愛とは与えること?与えるとは何か?
木は与え続け、人間は与えられ続けます。自己犠牲とは?・・・木の決して変わらない愛情が痛いほどに心に沁みる絵本です。
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はぁ〜深いね。
なんか切ないっちゅうか。
特に切り株になってしまった木の「きは それで うれしかった・・・ だけど、それはほんとかな。」なんて胸が苦しくなっちゃう
絵本ってさ、文章は短くてもすっごく深いな〜って話多いんだよね。
この本は色々な捉え方があるだろうけど、テーマのひとつに“無償の愛”があると思うの。
私ね、ぼうやに与え続けて切り株だけになってしまった木は、それでも幸せだったと思うんだ。
だって、木は見返りなんて求めてなかったもの。
木はね、坊やが幸せならそれで良かった。
でも、ぼうやどうだろう?
幸せだったかな?
私は不幸だと思うんだ。
だってさ、結局ひとりになっちゃったじゃん。
なんでも与えてくれた木に甘え放題で全てを奪い、最後はひとりぼっち。
そしてその事に気付いているのかいないのか、切り株に座っちゃったりしてさ。
てか、気づいてないに1000円かけてもいいね(←せこっ。ここはどかんと1億とか言えや)
人としてこんな不幸なことないと思うよ。
ということは、ぼうやの事が大好きな木もまた不幸なんだよね。
それなのに幸せだと思ってることがいっそ哀れだよ。
“無償の愛”は“魔性の愛”だ。
与えられるに値する人じゃなければかえって不幸にしてしまう。
その愛の大きさや重さを感じ、受け止めるだけの大きさがないと、知らず知らずのうちに潰されてしまうんだよね。
ぼうやは最後の最後まで与えられることが当然だと思っていて、木の愛情などまったく感じていない。
木は最後の最後まで与えることが愛だと信じ、ぼうやの不幸に気がつかない。
いや、本当は木は気がついているのかもしれない。
自分の愛がぼうやを不幸にしていることを。
しかし、そこから目を逸らし、ぼうやの言うがまま振る舞う木。
なんとも悲しいお話。
私はこの絵本を読む度に、ぼうやが剛さんに思えて仕方なかった。
そして木は事務所であり、周りのスタッフであり、ファンでもある、と。
そして光ちゃんは……
ということで、続きは後日。
【もうひとつの『惜しみなく与える木』】で……。
じゃ。(。・ω・)ノ゙
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