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2018年06月13日20:11

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「表現の自由」と「多様性」の関係。

RADWIMPSの一件で、少なからず興味深い視点のコメントを頂戴しながら、
改めてこの問題の多面的な部分を認識する次第ですが・・。
他方、巷で飛び交う議論や風潮等などを垣間見ると、肯定否定双方共に
根幹部分から逸脱しているなと思う点が幾つもあるなと。
そこで今一度整理してみたい。

先ず以って、世間的に出て来る対立的概念。それは「表現の自由」との関係性。
愛国的な精神性を背景にした表現を発するのが認められるべきか否か・・。
問答無用、こんなの「認められるべき」であることに決まっている。
音楽文化に特化するなら、そのような作品は世界を見回せば
決して少なくはないですしね。それになぞらえるなら、一応自由社会を標榜し、
曲がりなりにも民主主義の国である以上、“多様性”の観点からしても第一義的には
許容されるべきなのが筋。

問題は、「許容されておしまいとするべき内容であるか否か」なのであり。
つまりは、「作品の表現手法」に難があるかどうかが重要な点。
とりわけ日本の場合、先の大戦による歴史的背景とナショナリズムの関係性は
決して横置き出来ないのであって、そこに孕む問題は今更述べるまでもなく。
これを「デリケートな問題」とぼかすことが、あらゆる不理解や誤解を生む一つの
基であるも、さりとてざっくり言えばデリケートであることに大きな齟齬はなく。

今回の楽曲は、サッカーW杯のテーマソングという「プロダクト」のために
書き下ろされた楽曲であって、先ず以ってここに“企画性”が介在していることは
どうあれ踏まえておかねばならず、何の脈略もなく唐突に、自然的にリリースされた
作品ではない・・ということを無視しては、奥底にあるものを見失いかねない。

その上で・・。一端切り離し純粋に楽曲の是非について鑑みるなら・・。
冒頭の「表現の自由」との関係性。この概念について、法的見地にて大変詳しく、
かの「ろくでなし子」事案で辣腕を振るった“山口貴士”弁護士がいる。
氏の重層的見解には、時にすんなり受容出来ない所も幾つかあるが、
彼が述べているように、表現の自由には、「嫌われる自由(批判される自由)」が
対になっているのであるという。

「嫌われる」ということは、即ち「許容されない」ということ。
許容されないということは、そこには必ずや大なり小なりの批評・批判が表出する。
なので、その表現が今回のような「音楽文化産業における作品」であった場合は尚更、
批評がついて回ることは当然であるばかりか、批評の俎上に乗るということは
その時点で先ずは「健全な姿である」と言える。
逆を言えば「批評も全く起こらない作品は凡庸」であるとも言える。

よって、表現の自由を根幹にした「多様性の認否〜受容・非受容」については、
法的見地から鑑みても「直接的で明らかな悪質性にある、物理的な阻害・弾圧行為」
をもっての非受容行為はダメであり(産業であるなら営利阻害行為等)、
それ以外での世相や言論空間での批評・批判は、寧ろ健全な自由社会を
象徴する行為であって、文化産業の見地からしても、上記のように
闊達に行われてこそ良好な環境であると言える。

このことを、今回の件での肯定側・批判側両者の一定部分には理解が欠けている、
または端から「表現の自由」を理解していない向きがある。
多様性については、人の数だけ「あらゆる価値が存在すること自体」を
認めることから始まるも、認められないという意向、また受容出来ないという批評を
潰すことは、それもまた逆の「不寛容」となる。

こうなると、「えーい面倒くさい。だったら最初から関わらない・・」
という心理作用が働きがちになるが・・これを俗っぽく言えば
「腫れ物に触らず」の所に行き着いてしまう。これが一番危険であり、
触れないことによってもたらされる隙間から、あらゆる思惑が介入する恐れがある。
即ち、愛国的なものであったなら、そこに権力が「利用しにかかって来る」。

少なくとも「大衆文化」である限り、そこに公権が介在することは
大衆文化として「あるべき姿ではない」し、大衆文化としての価値は
すこぶる「低下する」。よって、これを阻止すべくは、
表現者による「巧みな表現力」に掛かってくるのだ。

その点で、RADの作者による内容は、上記の「プロダクト」という側面が
後押しする格好になってはいるものの、結果的に「巧みさ」がないし、
国を愛するという、政治性等とは元来距離のある素朴な気持ちを表現しようとするなら、
巧みな経路を辿り穏当な世界観の所に着地するべきだったはずで。

それ以上には事実として先の日記でも触れた、政治権力者も執筆を寄せる
保守言論誌から「日本回帰となることを応援する」等というものを
早速招き入れてしまっている。つまり、この時点で「大衆音楽文化」として“失敗”だし、
公権の思惑や思想にいとも易易と「利用される」という危険に対する危機意識が、
漠然と許容する側にも、単なる愛国アレルギーの側にも見えていない。

一方で、何やら一部にはRADのライヴ会場付近で抗議行動が予定されてるとか・・
これが、上記の「ダメな部分」であって、批評は世俗の言論空間や
音楽批評の領域で貫徹しなきゃならないこと。その中でなら政治的領域に関する
あらゆる批判も起きていいが、ここまでに至ると、先の「サザン桑田問題」当時の
“アミューズに対する抗議行動”と何ら変わらなくなる。

要約すると・・。

●この楽曲自体に対する批評。→大衆の素朴な愛国的精神性が稚拙である、という評価。
●日本独自の歴史性を背景にした、毒のある愛国性をモロに表していることの危険性。

この二本柱で構成されていると観るべきで、単なる音楽産業〜文化という点でも、
歴史性を基にした日本という国家観の観点でも、
批評を受けるべくに充分値するものであることは自明だと思うわけです。

また、何れかに言及するとしても、「多様性の認めあい」という
ふんわりとしたもので包んで始末することや許容してしまうことは、
元来の「表現の自由」と、本質的な「多様性の享受」とは相反する・・
ここはどうあれ立体的に考察し、踏まえねばいけないでしょう。
そうじゃないと、ホントの意味での「豊かな音楽文化〜産業」なんて発展しない、
それは間違いがないと思います。。
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