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2018年02月23日01:56

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自己責任論という名の「無責任論」。

この落語家、元々ネジが飛んでる者なので、今更この個人に言及した所で
殆ど無意味ゆえ、そこはあえて割愛するとして・・。
ここで本件の中心にある「自己責任」というものについて。

自己責任という言葉、概念的なものを含めて実に「都合のいい言葉・解釈」だ。
結論から言えば、施政者だったり親だったり、指導者だったりの“上に立つ者”による
「逃げ口上」なんだな、結局。言い換えれば「責任を取って代われぬ自身の無能さ」を、
当人になすりつけているのであり、これは上に立つ側による「便利ツール」。
早い話「ええいめんどくさい、個人のせいに収めてしまえ」という。

この便利ツールが盛んに飛び出して来たのはいつ頃からだったのか・・
正確な時期は弾き出し難いものの、どうにも近代・・およそ90年代のある頃・・
あるいは2000年前後辺りから急激に乱発されるようになった感がある。

この時期にある日本の国内情勢や政治的背景等とを重ねてみると、
およそバブル崩壊から余波として続く頃で、政治的には小泉政権辺りと被ってくる。
いわゆる“失われた20年”にある「混迷期」の中で重用された印象。

社会制度や経済の分野でも持ち出された「護送船団方式」なる比喩にある、
既存の日本型社会システムや道徳〜倫理・・「幇助」や「福祉」にある根本概念が、
経済を中心にした歪なフィルターを通した時、日本を駄目にしたそもそもの
悪性・元凶だ・・とする理論。即ち「新自由主義」の思想にある根幹部分。

このイデオロギーが拡大蔓延していくのと並行し、旧来世代による倒産企業経営者、
広範な分野にて失敗や脱落していく者達・・いわゆる「負け組」なる属性を、
自己責任という概念で丸め解釈して切り捨てた。

政治的に言えば上記小泉政権・・言わずもがな「竹中平蔵」由来による
強引な経済〜社会制度改革に引っ掻き回された挙句の、社会規範崩壊。
その反動防護壁、テトラポットが「新時代の自己責任論」だろう。

この思想や概念、まっさらな状態から染まり上がる人間の「成長期」に重ね合わせると、
およそ今の40代程度から下の年代が、一番自然的に感化や教育されているとみられる。
この落語家にしても、ちょうどぴったり嵌る年代で、伴って社会の流れ・有り様が、
勤労による社会経験の累積としてそれなりに備わることで、思考や思想的なものが
「定着〜固着する頃合いの年代」でもある。言い換えれば
「世の中わかった気になる」頃。

彼に特化するならば、旧来日本型社会制度や規範を「古いもの〜悪性の根本」と捉え、
“悪しき風習”としてざっくり解釈した末の「切り捨て思考」。
厳密には、その世代前から既に拡大していた「個人主義」、その一端と
ランダムミックスされた末での、一つの帰着点とでもいうべきか。

ということを土台にしつつ、この自己責任論を観ていくならば・・。
時代的な出来事の象徴として思い出されるのは、04年に起きた「イラク人質事件」。
02年に起きた米国によるイラク戦争を受けて、邦人が現地に入り武装勢力に拘束、
結果的に無事解放されるも、危険な所に入っていきこんな顛末に至ったのは自己責任・・
という世論が高まった。しかし、この事件よりもっと前にあった複数の類似事案の際は、こんな世論傾向には少なくともなかったわけで・・

米国ブッシュ政権時代に起こった9・11。それが引き金となったアフガン、イラク戦争。
「ネオコン」と言われる取り巻きらによる世界侵食・・。
属国にある日本が、より一層米国による侵食が顕著になったのは、
まさにバブル崩壊以後による「アメリカンコントロールと支配」。

ブッシュによる演説にあった「悪の枢軸」、「我々につくか、敵につくか」という
わかりやすい二極定義。そして新自由主義思想を背景にした「勝者/敗者」という
二極構造。その果てによる切り捨て〜分断傾向・・
それを丸ごと取り入れた(取り入れさせられた)、アメリカンスクール由来の
高級官僚や、アカデミー、言論界隈、そして政治家・・これらによる社会思想の構築、
喧伝により、「敗者」=自己責任、社会的な迷惑者=自己責任⇒切り捨て・・
という図式が完成の域に入った。そのさなかに象徴されてしまったのが、
人質事件による本来の「被害者」邦人達だった。

如何なる理由であれ、可能な限り人の命はすべからく助けるという人道、福祉、倫理、
規範。それが自己責任論のおかげで「助けられる条件」が付いてしまったという・・。

本件にある「貧困や困窮」。まさに“勝者/敗者”の二極構造にて分類された、敗者側。
原理から追うところ、勝者はなぜ勝者になり得たのか・・。
努力したから?苦労したから?頑張ったから?そうとも言えるが、実はそうとも言えず。
簡単な話、「敗者がいたから勝者になれた」だけのことだったりする。
いわば「敗者のおかげで勝者になれた」だけのことだったりする。
とどのつまり、自分よりも優秀な者ばかりだったなら、自分は敗者の側だったという。

努力したから勝者になれた・・「ある限定局面では」そうだったかもしれない。
が、それは結局「幸運」だっただけでもある。自分の周りに敗者となる人が
多かっただけ・・周囲の敗者は努力を怠ってたのか、能力不足だったか、
何らかの阻害要因によってだったのかの一切は問うことなしに・・。

よって勝者の理由・・とりわけ自身の経験を基に言う言説は、何らの立体的な
要因考察なきもので、単に一方的な解釈や独善的な論理による言い分にしか
過ぎなかったりする。落語家のように、貧困状態から抜け出せたのは完全な自身の
努力成果だったのかどうか。他者やその時の環境要件、狭い局面での、その時点での
タイミング・・それら複合要因があって今があるはずだ。これを前にざっくりと
「だからこの国は良い国」だという解釈が、如何に焦点ボケしてるかだ。

複合要因とは社会制度、政治〜地域行政、不可抗力要素、タイミング、環境・・
一定の努力さえすればそれなりに勝者の側になれるのか否か、はたまた、少なくとも
「勝者になった気になれる」のか否か。

働けないから働かないのか、働く意欲が沸かない何かがあるから働かないのか、
働く環境があってもミスマッチがゆえに働けてないのか・・
きちんと分析考察なしに、漠然と「努力義務の欠如」という一行で結論付けることの
何という粗雑ぶり・・。

往々にしてこの分析考察を進めると「御託を並べるな!」「言い訳するな!」という
口上に逃避する者がいる。理由は、単にめんどくさいからだ。
それを進められると、時に自分にも責任の一端があることが判明してしまうからだ。

自己責任・・原理から言えば、人は誰しも生まれた瞬間から自己の責任が
何某か付随され世の中入りする。但し、その責任の範疇や程度は個々の資質や能力、
各種の条件が各々異なるために、度合いを均一にすることは困難にある。

また、特段の不利条件がなく健全であったとしても、そもそも「人は間違う動物」、
「失敗する動物」であるがゆえ、大枠での責任範疇からこぼれた時に、
救う・助けることがなければとても長い生存は出来ない要件に人間はある。
それを担保するのが倫理や道徳であり、通念・観念であり、社会規範であり、
各種の社会制度であり・・。

行き着く所、「人は一人で生きては行けない」にある。
だから社会が他者が、他者を時に救わねばならず。責任の度合いは後回しにして。

「人間社会の一員としての」責任は、同じ人間と共存するための手段と行動にある。
その意味で、自己責任論を振りかざして他者を突き放すのは、
「自己責任論という名の無責任論」であって、単に責任回避・逃避そのものなんである。

■「この国での貧困は絶対に自分のせい」 落語家・桂春蝶が自己責任ツイートで炎上
(キャリコネ - 02月21日 18:41)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=210&from=diary&id=4996746
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