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2017年05月24日18:41

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どちらが「真面目」なのか。

またしてもこの話題を(笑)
まぁ、今まで散々書き尽くした感もあるのだけど、あえて・・。

記事中のように、この争点には『公衆』の定義と、『聞かせることを目的としているか否か』
の2点に集中していると観ていいと思うのだけども。

○「公衆」

一般に公衆とは、「不特定または多数の人間」のことを指す。
記事中にもある判例では、「社交ダンス教室が『一度に数十名の受講生を対象として
レッスンを行うことも可能』であることが1つの要素として考慮されている」とある。

一方、ライヴハウスに来る客が例え一人であろうとも、それは「公衆」に該当する。
逆に、知人友人に限定されたプライベートな催し物を開く、あるいは葬儀という同様の
限定対象にあっても、人数にかかわらず「公衆として」権料を徴収する権利を有する、と。

「その点だけでいえば」音楽教室もまた、生徒が1人または10人単位だろうとも
「公衆」とみなすことが出来てしまう。

○「聞かせることの目的定義」

問題となるのがこれだろう。
音楽教室の目的は、言わずもがな「音楽教育」。基本は演奏技術を教えること。
教えるためには「時として」先生が演奏することは必要になる。
つまり、「教育の手段として演奏している」に過ぎない・・ということになる。

要は、「演奏すること=聞かせること・・が主目的ではない」と解することが普通に出来る。
しかしJASRAC側によると、

『指導や練習のためであっても“聞かせることを目的として”にあたる』

としている。この文言には前段に「・・ためであっても」という、
わざわざ強い前置きをして「聞かせることを目的としている・・」という論法になっているわけで。

ざっくり言えば、「理由がどうであれ何であれ、聞いてる人がいるんだから
それは聞かせてると同じことなんだ」という、かなり大雑把に引っ括めた論理。

〜2つ合わせての総論〜

さて、二つを合わせ観ると、「公衆」としては整合性がまあまあ取れてるとしても、
「聞かせる・・」については中心点からかなり大きく逸れていて、
「対象円の中の相当縁の方・・」と言うに妥当ではないかと。つまりは「かなり苦しい論理」。

わかりやすく言えば「聴かせる・・と言えなくもない・・だけで、無理くり過ぎるよね」と。
なので通常一般の感覚として、明快ですんなり納得も理解も得難いことは確かでしょう。

これを、法論理の中でこねくり回し、ギリギリの所でJASRACの言い分が推認されるとすれば・・
「法としての妥当性」をどうにか得られたとしても、反動・・即ち後の影響の方が大きくなることは
間違いないでしょう。つまり「困惑」や「混乱」。

このことで音楽教育のみならず、音楽としての広い概念性は萎縮を招き、
その萎縮は総体的な不利益を生み出す、と。

概念として考えれば、この議論に据え置くべくは「イエロー」、または「グレーゾーン」。
厳密に突き詰めれば“危険”だけど、限界点未満ならいいよ・・という、言わば「緩衝領域」。
信号機で言えば「黄色信号」、「点滅表示」。青からいきなり赤にならない、しないのは、
限界点との境を明確にしてしまうとかえって危険、あるいは挙動的に悪影響をもたらす恐れが
あるからで。だから道路法規上「黄色信号時は注意して速やかに渡ること」となっている。

サッカーの「イエローカード」が、あくまで“警告”として、累積により退場となってしまうのは、
何よりも競技上「危険性」が伴い、行き過ぎになることの危険性と、ゲーム上よからぬ
展開を招くことを想定してのことだろうけども・・

音楽の場合、実質的には「営利を伴うことの侵害」という明確な違法性に抵触しない限り、
殆どの影響はない・・とみなされる場合の方が圧倒的に多いはず。
よって、音楽の性質上、ギリギリ一杯まで許容されて然るべきなはずだろう。

音楽とは読んで字の如く「音を楽しむ」ことに本質があり。
文化〜産業としては「楽しむことでもたらされる、豊かな社会生活」を目的とする、と。
ここに必要なのは、「手軽さ」と「距離感の近さ」、「敷居の低さ」。

思い立ったらギターやピアノで思いのまま弾く、鼻歌を歌う、料理しながら聴く、
お風呂に入りながら、車を運転しながら、作業をしながら・・
音楽文化は、誰しもにある極々日常生活の一部に寄り添うべき代物であり、
作者としてもまさにそこを目指して作られている・・といってよく。

音楽教室の場合は、その冒頭部分に該当するばかりでなく、
実のところ「次代のプレイヤーや創作者」を生み出す重要なきっかけでもある。
そしてその彼らがいずれ生み出すものに対し、聴衆者(消費者)をまた作り出す可能性があり、
それは一歩引いてみると全て「連続性」にあり、産業構造としての基礎的要件でもある。

そのことに鑑みれば、まさに記事の最後にある『音楽文化の発展』、
その要素の中核を成すものであることに他ならないのであり。

JASRACによる基本は、現作者やプレイヤー達の「利益保護」に特化されているといってよく。
現存の(または後継者の)利益を第一にして、彼らを保護することによって
消費者はその恩恵に与ることが出来る・・という論理にある。

つまりは、「一にも二にも先ず作者が上に立ち、消費者はあくまでもその下にある」
という言い方は、何もひねくれた見方でもないと。

しかしどの産業分野でもおよそ共通するのは、商品を生み出すメーカーと消費者は
利益相反の関係で成立しているのであって、「上下」として観ることは不適切と思うわけで。
寧ろ「左右」として、出来るだけ同じ目線上の関係性にあらねば発展はなく、
とりわけ音楽という文化にある特殊性になぞらえれば、尚更そのような関係性になければ
健全な発展も浸透も成し得ないはず。

ヤマハは、個人的な経験則からして、総体的に純粋な音楽の発展を考えた、
真面目な人間が多い組織だという印象が強い。
事業の幅は多岐に渡るため、全てまでは知り得てはいないけども、
とりわけアーティストセールスやそれに近い部門とか、類する楽器部門等の人間に接すると、
他のレーベルやメーカーなんかと比べて実直性は高く、「音楽ありき、音楽に奉仕する・・」
というような精神性を大概持ってるなあと感じたわけで。

そうした観点でみても、JASRACとヤマハのどちらが音楽文化の発展を健全に、
純粋に考えているかについては、圧倒的にヤマハの理念にあるというのは
自信を持って言えますねぇ。

心情的なものを全てに置いてこの件を論ずることは不適切なものの、
それを抜きにしても、やはりヤマハの主張が通らないような文化構造は、
間違いなく分野も産業も衰退すること間違い無し、でしょうね。。

■使用料問題、音楽教室がJASRAC提訴へ…どちらが「音楽文化の発展」に寄与するか
(弁護士ドットコム - 05月24日 10:43)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=149&from=diary&id=4586848
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