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2017年05月23日23:13

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法の厳正化で損なう“寛容性”と、「損得勘定」。

この法案が「テロ目的ではない」ことを、一ヶ月も前に当の自民党“古川法務部長”自ら
認めてしまった以上、「テロを主体にして」物言う事自体そもそも「間違っている」のだけども・・。

というわけで、“刑法”としてやはり共謀罪をどう考えるかに特化せねばならず、
テロ概念と同化した者は端から「論外」なのでありまして。

共謀罪による「副作用」については、先にも記した通り。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1960570065&owner_id=13658569

それはさておき、精神科医である「斎藤環氏」が発した見解が、大変興味深い。
(以下抜粋の上引用)
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〜「共謀罪」について懸念しているのは治安維持法の再来もさることながら、
その強力な自粛効果。中井久夫が指摘する日本の法体系の特徴である
「法網の細かさ」「法の弾力的運用」「一罰百戒」が該当するだろう。
統治手段としては恐ろしく効率的なシステム。〜

〜交通法規がそうであるように、法を厳格に適用すれば、誰もが多少はそれを犯さざるを得ない
「法網の細かさ」。誰もが多少は「お目こぼし」にあずかっていると感じながら生きている。
時たま狙いをつけて適用される「弾力的運用」。これをマスコミが書きたて
「一罰百戒」の自粛効果をもたらす。〜

〜「日本の犯罪率の低さのかなりの部分は、このみごとな法思想による」
「人民をいささか矮小卑屈にしないかと気がかり」
「目に見えない代償を払って、“安全”に高い優先順位を置いた文化を維持している」
(中井久夫「保安処分をめぐる感想」『働く患者』みすず書房)〜

〜法を論理的にではなく情緒的に運用するという法体系の特徴もまた、
それと親和性の高いヤンキー文化の「正の側面」と言いうるかも。
これがあるから刑務所の受刑者数が6万人程度(アメリカ200万人)で済むほど、
治安にかけるコストが低く押さえられている。〜
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ここから汲み取れるものとしてあるのは、何と言っても「自粛効果」だろう。
これが、法を運用したい側による最大の狙いであり目的。
「犯罪抑止」という名目の下、国民を統一化、または「下僕化」させたいという。

これを、「道徳」や「教育」という美辞麗句によって更に包み込み、
国民統一という名の独裁状態にすることで、政治を遂行しつつ、かかる労力を省きたい。
先ずこの時点で「国民主権」という大義は崩れ去る。
簡単に言えば中国や北朝鮮あたりと同類になるということ。

一方、戦後からの歩みの中にあるのは、日本人好みの規律性や道義性を一定程度置きながら、
他方ではある程度の「看過」や「寛容」を併せ持つことにより、
多方面の分野で発展を遂げて来た。即ち「自由」の概念性。
このバランスを取りながら今に至っている・・と。

自由を追求していけば、どうしたって時に限度を超えたり、踏み外してしまう弊害が起こり得る。
これ即ち「人間だもの・・」という論理と実態則。
その時、同じ人間が対角線上から戒めに掛かるわけだけど、限度・・つまりは線引き、
または領域が狭くなればなるほど、戒める側による心理的許容度も伴って狭くなる。

ごく身近な所で置き換えるなら・・。

わんぱくな子供が、ボール遊びに興じ夢中になった挙句、ついつい誰かの家のガラスを
割ってしまった・・雷親父が飛び出して来てガツンと叱る。
その時「コラ!どこでボール遊びなんぞやっとるんか!ちゃんと遊べる所で遊べ!」というのと、
「コラ!ボール遊びなんてやれば、いずれガラスを割ることぐらいわからんか!
そんな危ない遊びなんてするから駄目なんだ!学校の教師は何を教えとるんだ!」
というのでは、様相が大きく異る。

前者はまさに、戒めの中にある“寛容性”。子供ながらのわんぱくさを何処かで認めつつ、
的確な場所で思い切り遊ぶがよい、というのが介在している。
しかし後者は、そもそも遊びの手段を抑制し、子供ゆえのわんぱくさを否定し、
非寛容性によって子供本来の健やかな成長を阻害する恐れを強く滲ませる。

大人の場合・・。
仕事の場面にて上司が、「良いとそこまで判断したんなら、後はやってみて結果を出してみろ。
もしそれでも結果が出なかったら、その時また考えればいい。結果責任ぐらい上が取ってやる。」
というのと、「本当に結果が出せるんだろうな?出なかったら自分で責任を取れよ。
その時いちいち上は責任なんぞ取らんからな」というのでは、様相が大きく異る。

子供の場合同様、前者は行う部下によるモチベーションが上がり、大船に乗ったつもりで
伸び伸び取り掛かれる。しかし後者は、責任が重くなるからこそのモチベーションという側面では
幾ばかりか発生するものの、“もし失敗したら・・”という恐怖を抱えながら行うことになり、
ひいてはその恐怖心がモチベーション自体を上回り、伸び伸び取り掛かれないデメリットを
生むばかりか、結果的に最初からやめてしまったり、無難な所ばかり追い求めることになる。
これ即ち「自粛ないしは自重」。

何かを行い進めることは、時に踏み外しや失敗が付き物である。
それに際し最初から咎めるものが大きく、限度が狭ければ意欲が沸かない。

共謀罪に翻れば、得られる「安全」に対し、損なう物との比較をどう鑑みるか。
斎藤氏によるものの中にある、「お目こぼし」によって得られるプライスレスなものとの対比。
見かけ上の得られる「安全」には、失うものが実は大変大きいということだ。

また、お目こぼしや寛容性があることによって、その恩恵は個人や社会に対し還元をし、
そのことは次代へと繋がれていく。「自由の継承」だ。
まさに、現代人は戦後の民主化や自由の保証を先代らによって継承され、今の環境がある。
即ち現代人は「恩恵に授かっている」わけだ。それを今、短絡的に捨てようというわけだ。

一方、斎藤氏による文言の中にある「コスト」。この着眼点は実に意義深い。
米国による数字は、厳密に突き詰めると背景にある国の歴史的背景や国柄、
人口比率等々まで勘案しないと単純には言えないものの、漠然と無節操に厳しくしていけば、
その分のコストは比例して上がっていく。言わずもがな、捜査や拘留措置まで含めて。

その経費は誰が払うのかというと、国民である。
「共謀罪でじゃんじゃん取り締まれ!」なんて言ってる者は、それに掛かる多大な経費を
当然持つことになるわけだ。勾留期間の衣食住経費全てを。
それにより税が上がった時、「仕方ないよね・・」とあっさり言うかどうか・・。

言わないだろうね。「ふざけんな、なんでそんな奴の分まで俺が払わなきゃなんないんだ」
と憤るのは必定。なになに、今この瞬間それを受容し認めたんじゃないか。
こういうのを「無責任極まりない」という。

目の前の、今の感情だけで短絡的に決め打つことが、トータルで観て
「損か得か」の計算が出来ない・・それによって自らの首や懐を絞めることになるとは、
賛成している者は誰も考えてないだろう。

寛容性や自由には、その逆に対して寧ろ「安上がり」な側面があるということだ。
厳しくすればするほど、掛かる労力とコストが実は伴うんである。
金は天下の回り物でもなければ、誰かが代わりに払ってくれるものでもない。

そして何と言っても、少子高齢化に伴いリソースは徐々に萎んでいく。
掛かる労力やコストの一方で、高齢化する人口がどんどん増えていき、
否応でもそのための経費が益々必要になる。

施政者達もその時の、目先の利益だけに固執し、盲目的に礼賛する者も然り。

自分のバカさ加減というものを、賛成者はよ〜く考えるがいい。。

■「共謀罪」法案、衆院通過 自公維の賛成多数
(朝日新聞デジタル - 05月23日 16:28)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=4585734
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