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2018年09月19日09:48

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お化け屋敷や化け物小屋の前で「怖い、恐ろしい」ということを考える

ハーグに出かけることがあって午後の陽射しの中、寂れた移動遊園地を歩いた。 その時にフリークショーやお化け屋敷の一角があるところに行き会って、夜ならいざ知らず昼間にこういうものを観ると大阪で言う「慚無い」気持ちに襲われるのだが、そういえば、こういうところに入ったのはいつのことだっただろうかと思い出してみてもいつのことだったか思いつかない。 日本に居た時は入った記憶はあるもののオランダに来て38年、その間に入ったことがあるのかどうかは思い出せないからそんな経験はないのかもしれない。 いや、向うに見えるガラス張りのびっくり屋敷のようなものには入った記憶がある。 けれどそれは化け物とか幽霊、お化けというようなもので驚かせるものではなく、即物的に暗い所を歩かされ急に足元が滑るなり突然濡れ雑巾のようなもので顔を撫でられると言うような、怖い、恐ろしいという感情を喚起するものではなく只単にびっくりするというだけのものだったような気がする。

大体怖い、恐ろしいというのは日常あちこちで感じることではあるがそれは危なく怪しい他人から危害を加えられそうだと感じて怖ろしいのであって化け物や妖怪ではなく訳の分からない人間が怖いのだ。 オランダに住み始めてからは怪奇現象や亡霊、心霊現象などその気配を感じたことはない。 それよりも日常的に様々にニュースなどで報道される人間世界のほうが数段怖ろしい、怖いと感じる。 どこでどんな人がいて、いつこちらに危害を加えてくるのか分からない。 それが分かっているから人はそんな深刻な怖さを時には脇に置いて娯楽的で楽しい怖さ、恐ろしさを求めてこういうところにやってくるのだろう。 一時的なチープ・スリルとでもいうものだろうけれどその場所を出てから、ああこわかった、と言って笑えば何某か払った小銭に対応する満足さは得られる種類のものなのだ。

自分は気質に今でも臆病な部分を残してはいるが5つ6つの頃は怖がりだった。 育った大阪南部の田舎の農家では風呂も便所も庭を挟んだ別の棟にあってそこに行くには大きな柿の木の下を潜って暗い中を走り風呂場の豆電球を灯して五右衛門ぶろに入る。 風呂の窯はマキや秋には収穫後の籾殻をくべて湯を沸かす。 ぬるければ大声を張り上げて人を呼ぶ。 冬の寒く暗い夜に下着姿で一人母屋から湯屋に出ようとすると祖父が冗談に、柿の木に引っかかった幽霊に頭を撫でられないようにな、という一言で凍り付いてそこからもう足が前に出ない。 他の家族が冗談だというけれどあるイメージが頭の中に湧きあがってそれを押し殺すまで時間がかかり、結局はブルブル震えながらそこを目を硬く瞑って走り抜けるようなことをしていた。 当然そんなことはそれから1年も経たないうちに日常に紛れ何とも思わなくなり、そんなことがあったのを皆の笑い話にされることにもなるのだが、そんなイメージというのは大体どんなことから植え付けられたのか、世間でいう怪談がもう5つ6つの子どもの頭に形となって植え付けられていたのだろうかと思いもする。

自分は夢を見ない。 当然人は誰でも夢を見ているそうだがそれが記憶に残らないなり記憶が思い起こせないということなのだと言われる。 要は夢を見ないという結果だけがのこるのだが、そんな自分でも若い頃には時々うなされるような夢を見たことがある。 友人には枕元にメモ帳とペンを置いてみた夢をいちいち記録しておいてそのうち夢を操作することができるようなものもいたが自分には縁のないような人種だった。 寺か公園の敷地内を必死で逃げ回っている。 何から逃げているのか追われているその正体を見ていない。 見ようとしないのかそれほど見るのが恐ろしいのか、何故自分が追われているのかその理由など考える余裕が与えられないほど恐ろしいのだ。 同じところをグルグル逃げ回っているのだが心のどこかでそこから外に一歩外れれば逃げられるだろうにと思っているのにそれも出来ないのかしない。 結局疲労困憊して目が覚めるということになるのだがこの夢はいつまでも憶えている。 ここでは何が怖いのか怖ろしいのか皆目見当がつかないがそこから必死で逃れようとする自分が居てそこから逃れられそうなのだが同じ回路をぐるぐる堂々巡りをしている構図となっている。

霊的な経験がなくもないがその時には怖いとか怖ろしいという感情は一切なかった。 それは見知った故人に関することであり出来ればもう一度体験してみたいというようなものでもあった。 幽霊というものがあるかないか知らないが自分に関わりのない存在の霊というものであれば別段怖くはない、とは思う。 とはいっても「耳なし芳一」のような霊にはゾッとする思いはあるけれど今の世に存在するとは思われず、仮令そんなものが現れたとしても只呆然と観ているだけだろうとは思う。 若い時に真っ暗な夜道や山中を一人で歩いたこともあるし何年か前の帰省中には終電車に間に合わず真夜中に山の墓場のそばを歩いてホテルに戻ったこともある。 怖い、恐ろしいという感情は一切なかった。 寧ろそんなところにはそんな時間に危害を加えるような人間はいないだろうから安心もしていた。

霊的なものとか何かゾクゾクするような気持にはオランダに来てから経験していない。 日本ではなくもないからそれは何なのだろうかと不思議な気持ちになる。 それはそんなゾクゾクするような霊的なものはその社会、文化の中に完全に溶け込んでいれば感じられるものかもしれないと思っているふしがある。 ただ単に習慣、その国の言葉、日常瑣末な事に通暁していても自分はこの国の人間ではないと感じているからなのかもしれない。 映画などでいくらホラーや怪奇ものをみてもびっくりはするものの怖ろしいとは思わない。 いや、もう何年も前に観た「リング」の貞子には何故か鳥肌が立ったからもう一度観る機会があればそれが何故だったか考えてみたい。

眼の前の看板を見ていてこれがなぜ恐ろしいのか怖いのかと訝っているとこれは化け物屋敷やお化け屋敷の看板ではなくてフリーク・ショーの看板だと気付いた。 フリークとは畸形のことで霊的な恐ろしさ、怖さには関係しなく、ただその形の奇異さを人に見せつけて何らかの感情を催させる見世物なのだが、自分の首を片手で持った女性はお化けであってもはや畸形とは言えず、また、ピンをあたまのあちこちにつけて歯を剥いている者にしても畸形というより人為的にそうした結果であってこれに近い人は探せばどこかにいそうであるからこれが特別だとも思えない。 

ジュラシックパークの恐竜やジョーズのサメ、突然目の前に立ちふさがる熊に面と向かったなら怖ろしい、怖いと思う。 それに自分は高所恐怖症でありビルや山の縁で足がすくんだことも何度かある。 今日ここで怖い、恐ろしいことを考えてみようと思ったのはそういうことでなく他のことだったように思うけれどそれが何だったかのかは定かではなく、想いは宙ぶらりんのままフリーク・ショーの看板を眺めたままでしばらく呆っとしている。
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