mixiユーザー(id:125571)

2018年05月22日09:40

243 view

死(2) ヴィンセント・ヴァン ゴッホの母の墓




このところ自分の身の周りに死が幾つか訪れ、それは前期高齢者である自分の後期高齢者ゾーンに向けてのファンファーレでもあって、単に慣れの問題にでも解消しなければこれから続く葬式のパレードには神経がもたなくなるなり、今のうちはそんな風に少しは感傷的にもなるのだろうがそのうち何の感情も湧いてこず淡々とやり過ごして自分の身の周りであと誰が残っているのか数えるようにもなり、そんなものだと諦念のなかで徐々に自分の体と精神の折り合いをつけて自分もこの世から去る準備に真剣になるのだろうし、病気や障害が厳しくなればその対応に追われ、高齢者には癌についで多いアルツハイマーや認知症になればそんなことも考えなくともそのまま灰色の世界に入り込み自分が自分でなくなるのだからある意味ではそうなったもの勝ちという局面もありそうだ。 

去年の夏逝った姑のようになまじ体が後戻りできないほど蝕まれ自分の兄弟姉妹がつぎつぎにその高齢から他界するようになると逆に自分の精神の明晰さが耐えられなくなり自分で選んで実行し他界するようになるというような現代的な現象も起こるのを見ている。 姑の場合は自分で選んだ死であり医者の介入を伴った自死ともいえなくもないけれどこれは若年者の自死とはまるで性格の違ったものだ。 ほぼ90年人間をやってきて肉体の限界を過ぎ、将来もなく自分の置かれている状況に意味を見出せず、それに耐えられないことから医師・家族・親族とも合意の上での決断であるからだ。 この頃は80を超えてやっとそれなら仕方がないか、といえるほどでこの間の射撃クラブの同僚、カレンの45歳はなんとも惜しい若さだったのだ。 これも自分の歳を基準にして考えるからで若者から見れば自分の歳以上は全て老人だと思い、何をうだうだ言っているのだということになるだろう。 実際この間まで、5,6年前まではこんなことを考えたこともなかったのだから。

こんなことを書くつもりではなかった。 知人・友人の死後何か記すことがあるかもしれないと始めたことの息抜きに市内観光で訪れた墓地のことを書こうと思い、そのことを記すつもりだったのだ。

キリストが復活してその後昇天し聖霊降臨祭とか五旬節とかの休日が昨日今日で、だから店が休みであるのを失念していて町にやってきてもただカフェーや喰い物屋は空いているけれど肝心の食材屋が開いていなく、また新聞でも読もうとおもっていた図書館も閉まっているのに気付き、仕方なくスーパーで買い物をして自転車でブラブラと日頃と違うコースを周ってもう何年も来ていない町の古い墓地の近くに来たので休憩もかねてそこを散歩したのだった。 時間が潤沢にあるのでこんな天気の時は行き当たりばったりにあちこちで寄り道、道草を喰っては時間をやり過ごす。 ここはライデン市内で一番古い墓地なのだ。 もう15年か20年ほど前に一度何かのグループで来たことがあり、そのときにヴィンセント・ヴァン ゴッホのおばさんか母親の墓だと示された墓があったのを覚えていてそこを尋ねてみようと思ったのだった。 濠に沿って古い製粉工場があってそこが改修されているところを眺めていてその地区の再開発に時間がかかり市の計画が二転三転してやっと何かに動き始めたのを工事現場で見たあとそんな墓地を見ようと思ったのだった。 

普通墓地にはいつも家族親戚の誰かれかの人間が水や花を持って訪れるのを見ることができるのだがここにはそんな人たちの影はない。 入口のボードにはプロテスタント教会の墓地として1813年に造成され教会の敷地に埋葬が禁止された1829年以降急速に埋葬人口が伸び、とりわけ大学教授、市の重鎮、企業家たちが葬られている中、ヴィンセント・ヴァン ゴッホの母親の墓も含まれている、と書かれていて730基あまりの墓石が数えられる。 なるほど、ゴッホの母親だった、と思い出したもののボードには当然それがどこかは記されていない。 高野山ではないのだ。 観光客など来るところでもなく、前世紀がはじまったころには一杯になりここに埋められている人々の家族も代替わりして係累ももうここにくることもないから一年に何回あるかというような市の清掃作業を待つだけであり、今の時期、初夏には雑草が茂り平らな墓石は草で覆われ墓石の文字も読めるところが少ないから昔来たときの朧な記憶を頼りにその辺りを歩いてみても見つかるわけはない。

だれもいない墓地を入口に引き返そうとしたときにそんな雑草の花を摘みながらこちらにやって来る婦人がいたので訊ねてみるとこの辺りではないかと先ほど探ってみた辺りに戻り、ここだと指されたところで草をかき分けてみるとなんとか Van Goch と 1819年9月10日生まれ、1907年4月29日没とだけは読めた。 帰宅後ネットで探るとそこに読めなかったのは

A.C. van GOCH-Carbentus だったと分かった。 そして A.C. というのは  Anna Cornelia であり、彼女はハーグに生まれブラーバンド州の牧師であった Theodorus van Goch と結婚して van Goch-Carbentus となったのだ。 けれどどうして母親がここライデンに埋葬されることになったのかに興味が湧く。 彼女の夫、ヴィンセントの父はヴィンセントが32の時亡くなっておりその後しばらくして母親は娘の住んでいるライデンに移る。 そのことについてヴィンセントは肯定的な手紙を兄のテオとやり取りをしていて1889年には墓地から300mほどのところに住んでいる。 70歳の時である。 そこで20年すごし没したことになる。 尚、その住所は自分の家庭医のクリニックの目と鼻の先であり今まで何度もその前を行ったり来たりしている。 この家で住み始めた翌年の1890年、ヴィンセント享年37歳の訃報がこの家にもたらされることになり、その半年後パリのテオの死をも伝えられる。 1899年にはテオの息子でアナの孫にあたるコーネリウス・ヴィンセント ヴァン ゴッホが南アフリカのブーア戦争中に死んだことも知らされる。 彼女の4人の息子は皆外国で死亡したものの4人の娘は皆ライデン近郊に嫁ぎ一人だけ独身でいた娘のところに母親が住み着いたということのようだ。

子供にとっては母の前に逝くのは親不孝であると言われ、自分も去年母よりも先に逝きそうになったけれど仮令そのとき逝っていたとしても母親はもう大分認知症も進んでおり殆ど意思の疎通ができない状態だったのでそう心残りにはなっていなかったが最近自分の先輩が71で逝ったとき彼の母親がまだ92歳の高齢でも心身ともに元気だというのを聞いてこころを痛めたものだ。 そしてここでのヴィンセントの母親の落胆ぶりは如何ばかりだっただろうか。 享年88歳、去年オランダと日本で同日同時刻に告別式を行った自分の母と姑よりヴィンセントの母は一つ若かった。
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2018年05月>
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031