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2018年10月24日08:43

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「止められるか、俺たちを」

 これは、「孤狼の血」の白石和彌監督が、1970年代初期の社会運動盛んな時代を背景に、彼の映画作りの師でもある映画監督・若松孝二が立ち上げた若松プロダクションの映画作りを描く青春群像劇。

 1969年春。21歳の吉積めぐみは、新宿のフーテン仲間に誘われ、「若松プロダクション」の扉を叩く。
 そこは、監督の若松孝二を中心とした新進気鋭の異才たちの巣窟であった。理論派の脚本家、足立正生。絵も音楽もこなす芸術家肌のオバケ……やがて、「映画芸術」の辛口評論家、荒井晴彦までもが脚本家として参入してくる……

 物語は、実際に若松プロで助監督を務めていた女性、吉積めぐみを主人公に、彼女を狂言回しにして若松プロの映画作りを描いて行く。
 モノづくりをする映画と言うのは大体が面白く、それが映画となれば、傑作になるのも当然。
 この映画も、1970年代と言う時代における映画製作の“リアル”に迫っており、興味深い。
 そして、この若松孝二と言うのは、徹底した自由思想家であり、製作する映画にはその思いが込められている。
 そんな彼が選んだのはピンク映画の世界で、当時のピンク映画と言うのは、女の裸さえ出せば、あとは何をやってもいい、と言う世界。
 だから、70年安保に反対、となれば、羽田空港を爆破する、と言う爆弾テロを映画で描くし、1972年にはパレスチナに行き、日本赤軍の活動を撮影。それを日本国内でキャラバン上映する、と言う事で左派・世界革命を支援する活動までしていた。
 (若松孝二は後に日本赤軍の支援者としてプラックリストに載り、米国などへの入国は認められなかった)

 当時、映画の中では何をやってもいい、そうして、様々なメッセージを伝える事が出来た。
 しかし現在。映画は不自由なものになってしまった。なにしろ、「万引き家族」と言うタイトルをつけただけで「国辱映画を作った反日プロバガンダ」とされ、「非国民」と罵られる。
 いや、映画だけでなく、創作全般がそうだ。
 先日から放送が始まったTVドラマ、「獣になれないわたしたち」では、セクハラが描写されただけで、もう観ない、と酷評されたし、「中学聖日記」では、未成年者との恋愛が描かれた事に非難が殺到した。
 犯罪どころか、倫理的に好ましくないものまでが、創作することさえ憚られる、そんな窮屈な時代……「不寛容の時代」になっているのが現状だ。
 創作や言論までも、政府が、そして社会が認めたガイドラインの中でしか認められない……ひとつの政府、ひとつの国民、ならば思想や思考、倫理観もひとつであるべき。それが「美しい国」だと言うのだろう。
 だがそれは、自由がない、頭の中までもが統一された、究極の全体主義、かつて、いかなる独裁国家でさえ成し遂げられなかったものだ。
 それを、社会と国民が望んでいる、と言うおかしな世の中になっているこの国で、だからこそ、若松プロダクションはこんな映画を作るのだろう。
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