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2018年01月16日22:19

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生きる事について考えた日々(上)

 皆さん、誠に遅くなってしまいましたが旧年中は色々と有り難う御座いました。今年も昨年以上のご愛顧のほどをよろしくお願い致します。
 さて、私は昨年の大晦日から終夜運転の臨時列車の乗務を担当、更にはこの1月の中旬まで休み無しの状態で働くという勤務でした。またこれから書きます出来事のため、日記やメッセージへの返信が出来ず申し訳ございませんでした。

 ある泊まり勤務の休憩時間の時でした。

 私のスマホに母からの留守電の伝言メッセージが入っており、「直ぐに電話をかけて」という内容でした。
 直ぐにこちらから電話をかけますと「先ほど医師からお父さんは体力が落ちていて、今週か来週くらいしか持たないと言われた、おまえは今日か明日にも病院に来ることが出来るか?」と言う内容でした。
 「今日は泊まり勤務だから勤務が終わってから病院に向かうから、明日の午後には病院に行ける」ということを母に伝え、同時に職場の助役にもこの内容を伝えたのです。
 電車の運転士は交代要員がいないと勤務を抜けることが出来ません。そのため最悪の場合も考えておかねばならないのです。

 そしてその日の23時10分頃。私のスマホに再び母からの留守電メッセージが入っていました。「病院からの電話でお父さんの呼吸が弱くなっているから直ぐに病院に来てと言われた。おまえは直ぐに病院に行けるか?」との内容でしたが、「これから最終電車の乗務に行かなければならない。もう親父の死に目には会えないだろうし、この仕事を選んだときからその覚悟は出来ている。お袋、早く病院に行け。それで何かあれば留守電にメッセージを入れてくれ」と伝えてから、職場の助役に報告。ここから私の残る勤務を引き継いでくれる運転士の確保が始まりましたが、直ぐに確保できるわけではありません。
 私は最終電車の担当をして電車を留置して職場に戻ってきました。

 やはりこの間に父は亡くなっていました。

 職場では交代要員の確保が出来ていましたが、始発電車で職場に来るため、私はその交代要員の乗務準備が出来るまでは乗務をすることになります。
 突発的なことで助役をはじめ多くの同僚らに迷惑を掛けてしまい申し訳ないです。

 所定なら10時10分頃に勤務終了ですが、この日は6時半頃に勤務解放となりまして、一旦自宅に寄ってから葬祭場へ。
 家族葬専門の施設で、私は安置室に案内されましたら、そこには巨大なショーケースのような入れ物に入った父がいました。
 喪服のポケットから数珠を取り出し一礼。

 父は2015年の5月にスキルス性胃癌が見つかり、翌月に腹腔鏡手術で胃を全摘しました。約1年後に腹膜に転移していることがわかりました。父は腎臓が悪かったため抗がん剤が使えませんでした。しかし医師の判断で投与が始まりました。しかし体重の減少が止まらず昨年末の時点で体重が40kgになり、遺体の父は35kgぐらいでしょう。これこそ癌の恐ろしさです。

 午後になり母と妹が到着。そしてこの安置室で「ゆかん」が始まりました。
 浅い風呂桶の上に父の遺体を移動し、資格を持った女性2人が父の体を接近を付けたスポンジで洗ってくれます。処置により遺体がまるで寝ているかのような状態になったのには驚きでした。ショーケースの父は皮の付いた骸骨と言う状態で、目と口が開いていまして、父の妹が見たら卒倒するのでは・・・と心配していましたが、目と口もきちんと閉じるようにしてくれました。遺体に対しての尊厳を持っての対応には驚くと共に感謝しました。映画で有名になった送り人の世界ですね。
 家族葬で無宗教ですので、父は白装束ではなく普段着に着替えさせてもらい、ここで納棺です。この時私もお手伝いしましたが、軽くなった父を軽々と持ち上げれたことは本当に悲しい事です。棺桶内の父の顔の横、お腹の上、足下にドライアイスを置いて納棺は終了。葬式会場に移動して、花で飾られた祭壇の前に緑色の棺桶が置かれます。

 この家族葬専用の施設には宿泊施設があります。本来であれば、父の妹が香川県善通寺市からやって来てここで泊まる予定でした。しかしこの日は強風のためJRの瀬戸大橋線が通行止めとなり、葬儀前日に来ることが出来なくなったのです。しかし誰か1人はいなくてはならず、急遽私がここに泊まることになりました。
 自宅よりも快適なホテル並みの住環境ですが、壁を隔てた隣は棺桶がある葬式会場。
 近所のコンビニで購入したラーメン、おにぎり、缶チューハイ、そして栄養ドリンクで夕食を済ませましたが、お通夜は無宗教の場合は有っても無いようなものです。
 23時頃に父にお休みの挨拶をしてから就寝。

 翌日の7時頃に起床。

 コンビニで朝食を買ってきてから、ふと気がついた。それは父の好きな曲が昨日からずっとかかっていましたが、違う曲もかけようと、自分で勝手に機器を操作してCDをチェンジ。
 8時45分頃に葬儀社の社員が出勤。新しいお茶を出してくれ、50分頃には祭壇の花のお手入れに来てくれましたので、祭壇の花の並べ方などを色々と教えてもらいました。


 そして葬儀の時間となり、まずは棺桶の上に白いカーネーションを置いていきます。
 次に葬儀社の社員総出で祭壇の花を切って籠に入れていきます。
 それを私たちが棺桶内に入れていきます。父の顔以外は全て花が敷かれています。
 ここで葬儀社の方がご厚意で、父のためにバースデーケーキを用意してくれていました。父は82歳の誕生日を過ぎて数日後になくなったのです。これには驚きましたが参列者皆が喜びました。そして棺桶内には父の好きなお菓子、海外旅行で撮影した写真、そしてバースデーケーキも入れて、ここで棺桶の蓋を閉じます。これが最後のお別れです。

 霊柩車への積み込みを手伝い、私たちはタクシーで後を追います。
 父が通勤で使っていた阪急千里線の横を通り、買い物をしていたスーパーの横を通過、JR岸辺駅の下をくぐり、阪急京都線と併走し、その踏切をわたり、住宅街の細い道を走ります。
 「こんな住宅密集地に火葬場があるのか?」と思っていたら、巨大な火葬場に到着。
 建物を見ると最近出来たようです。
 この場所から北に向いて行くとJR貨物の吹田機関区です。

 火葬場の職員が手押し式のフォークリフトを操作し、棺桶を炉の前に移動させます。エレベーターのドアと同じ形のドアが開き、棺桶を炉の中に入れてドアを閉めすが、短時間にてきぱきと進めていきます。
 いまは都市部において火葬場の炉の前で最後のお別れは無いようです。
 
 再び葬儀場に戻り、ここで食事となります。これが終わると再び火葬場に向かい、骨上げです。炉の前で骨上げではなく、骨上げ室での骨上げですが、火葬場の職員が説明しながら参列者が骨を拾って骨壺に入れます。
 再び葬儀場に戻り、ここで解散です。既に次のお通夜の準備中でした。

 私は昭和49年に祖父の葬儀を自宅で行いましたが、香川県の田舎でしたので、親族一同だけではなく近所の方々も手伝ってくれたことを思い出します。
 自宅での葬儀は本当に大変でした。その時のことを思うと今回の家族葬専門の施設は実に有り難い。しかし都市部特有の問題もあるのです。

 まず、何より最優先されるのは火葬場の空き時間です。炉が空いていないと出棺が出来ません。葬儀社はまず火葬場の炉の空き時間を確保し、そこから逆算して葬儀開始時間を決め、更に逆算してお通夜時間を決めます。
 
 次に以前は棺桶内に故人の思い出の品を大量に入れることが出来ましたが、今は制約が増えました。その理由は火葬の方式が変更になったからです。
 以前は重油バーナーでした。ですからバーナーの音が良く聞こえました。
 今は電子レンジと同じで、高周波で熱を発生させて焼きます。そのため骨以外のものを完全に焼き尽くし、時間も短縮できます。
 しかし、ぬいぐるみは小型を1個だけ。(プラスティック製の目が問題になるようです)それから本はブックカバーのみ。金属製品はダメ等の制約があるのです。
 とにかく火葬の炉をフル稼働させるには、炉の前で最後のお別れをやってもらうと時間の無駄になるので、葬儀場で行います。
 また棺桶の蓋に釘を打つ事もありません。今の棺桶はホッチキスの針のようなものを打ち込んで製作します。これも火葬方式の変更の影響でしょう。


 私は葬儀社の方々にお礼を言ってから徒歩で最寄り駅に向かい、自宅に直行しました。
 この翌日は1日中寝ていました。
 起床後に実家に向かいましたが、ここで驚くような事実を聞かされました。



 以下はまた別の機会に。



 
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