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2018年09月23日15:43

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本間利雄さん告別式

母校、基督教独立学園高等学校がある小国町に生まれ、すべての校舎、寮の設計をしてくださった本間利雄さんが19日旅立たれた。生前願われていたという卒業生有志コーラスの一員として参列しての記録。

近親者のみ、とのことだったが、お仕事関係など百名余、別会場に中継ながして見守られた方もいた由。

小国町樽口峠を模した式場にて。(献花後にとったので棺の中は山野草で一杯!)
フォト


故本間利雄告別式

司会:山本精一(基督教独立学園高等学校校長)
司式:助川暢(元 同校校長)、奏楽:今野和子(元 同校教員)
前奏:キリストは蘇られり
讃美歌:312番(先に旅立たれた娘さんの愛唱歌として、最後まで病室で口ずさみ続けられていたそう)
聖書朗読:コリントの信徒への手紙一 13章12,13節
開式祈祷、司会者
式辞:助川暢 ふたたびお会いする日をめざして
もっと長くご指導いただけると信じていた本間利雄先生を残念ながら先日天に送りました。先生の歩みを振り返ろうとこの場に立たせてもらいました。私は長く本間先生が働いてくださった小国町のキリスト教独立学園に長く働いたものであります。
独立学園は、内村先生が晩年、小国の地に1924年峠を徒歩で越えて青年を送ったことに始まる。1934年電気が通じない地に自家発電で独立学校という小さな学校を鈴木弼美先生が建てられました。津川村だけでなく小国の本町での礼拝をもっていた、そこにおじさんに誘われて集ったのが本間先生。そこから長いおつきあいが始まる。私が独立学園で仕事を始めたのは1969年、自宅を改装した校舎、マッチ箱のような校舎、屋根裏も地下室も寮として使う貧しい学校でした。本間先生は小国集会での鈴木先生との出会いを生涯のモノとして一心に事業に参加くださった。私が加わった頃は貧しく忙しい学校でしたが、敗戦をきっかけに新しい社会を作ろうという喜びに満ちた時代でもあった。火事で焼けたりするたび本間先生に建築でお世話いただきました。その都度「建物だけでなく、将来をどう歩むかを考えて作りましょう」と敷地全体を俯瞰する畳一枚もの大きな模型で導いてくださいました。設計について、鈴木先生の恩に報いることを第一に、設計料をとらぬだけでなく建築資金の募金まで率先して集め、貧しい独立学園を支え続けてくださった。そうした長い御働きの上に、6年前、思いも寄らぬ大きく立派な鉄筋コンクリートの校舎を与えられた。
その先生が、先日お亡くなりになりました。その事実をどう受け止めればよいのか。先ほど読んでいただいた聖句、おぼろげ、という言葉があった。直接にお話を伺える時、ではなく、おぼろげなる関係になる。けれども霊において先生とつながり、霊の力をいただいて前に進む、その道を思うのです。本間先生が亡くなられて、本間設計として大きな痛手でしょう。しかし、霊の先生と、これからは常にともに歩める。新しく前進しなければならぬ、そう私は教えられました。
まもなく地上から天にたとうとされています。私たちそれぞれは、地上で歩むわけですけれども、先生の思いをしっかり受け止め、ふたたびお会いできる日を臨んで、先生の歩みを一歩一歩たどってまいりたい。残されたご遺族、ご友人、のうえに本間先生からのお恵みがありますことを祈って式辞を終えたい。

弔辞(肩書きは一部のみ)
友人代表、相馬健一(元 山形新聞社会長)
最後の見舞いの3日後に天に召されました。10日ほど前にはしっかりはなせたので病は回復かと思っていただけに驚き。小国に生まれ、その自然精神を活かし、多くの建築物の設計に貢献されました。ブラジル政府からの勲章など、東北で二人目の日本建築家協会名誉会員などになられた。あなたがこの世から消えたことが未だに信じられない。弔辞を書かねばとペンをとっても、在りし日の光景だけがフラッシュバックしてくる。私にとりあなたは、友人と言うより先生でありました。地域社会に於けるきめの細かい活動。誰に対しても尊敬し活動に理解を示す、そういう人柄による活動を次の世代に引き継がねばなりません。常に将来について考え、政治に無関心な青少年を危惧し、毎夜議論を交わしたもの。

香山寿夫こうやまひさお(東京大学名誉教授、建築家、矢内原総長時代に学生)
建築の設計という仕事、建築家という職業、本間さん、あなたにとってそれはまさに天職、英語ではCallingというが、天からの求め、呼びかけ、それに生涯かけ全力で応えられた。建築によって人に奉仕し、人への奉仕を通じ神への奉仕をされた生涯でありました。多くの仕事を通じあなたの生き方に敬意をもつ。壁は山形の大地の上にやさしく立ち上がり、屋根は山形の空に向かって祈るように覆う。すべての人をやさしく包む、どのようにして、そのような建築を作られたのか。あなたを生んだ山形の地、育てた小国の自然において作られた。それを思う度、聖書の詩編を思い起こす。助けは天と地を作られた主より、くる。建築の原点であると同時に生涯の原点である。鈴木先生とキリスト教との出会いにつながる。最初の出会いは還暦すぎたころ、とさほど遠い昔ではない。しかし初めて視線を交わしたその時から通じるモノがあった。様々な要因がありましょうが、私が育った新潟と、本間さんの小国とが山を挟んで隣り合っていたこと。米沢街道から越後に越える峠に立ったとき、日本海に感動したとかかれていたが、私もまた西側から峠の向こうを思っていた。山を挟んでの共通性に気づかれ、すぐに私を家内とともに小国に招いてくださった。会場にそよぐススキではなくブナの合間に残雪が残る時期だった。幹に耳をよせ、樹液の音を聞かせてくださった。山の温泉で遅くまで建築を語り合ったその時間を忘れることはない。今年の7月の半ば、雑誌の対談のために病室にお訪ねした。それが最後になりました。振り絞るような対談、豊かなモノだったが、終わりに近づいた時、姿勢を直して僕に向かい言われた。「こおやま先生、いま、自然も建築も町も荒れましたね、これで良いのですか」それは生涯をかけての問いかけだったと受け止めた。自然を守る、人の生活を守る、その思いが生涯を貫いていた。人の能力、人の命には限りがある。すばらしい仕事を一生かけてなさったそれでもう充分。これからはあなたが育てた若者が引き継いで続ける。あなたの肉体は土にかえる。魂は先に天にのぼって、緑の牧場に遊んでいられるでしょう。私たちもいずれそこにて一緒になる。しばらくの間、残された仕事に全力を尽くす。あなたに感謝し、憩いを祈るのみ。つたない言葉をあなたと天の神様にささげ終わります。さようなら。

舟山康江(小国町出身の参議院議員)
多くの仕事を残された本間先生。相対する人に対しやさしく見つめる視線は嘘偽りをゆるさない厳しさとともに義理人情も兼ね備えている。一方先生の言葉はどうしてか心に残る。母を亡くしたときの先生の優しい言葉は忘れられない。ほんとうにたくさんの事を学ばせていただきました。後世に残すべき哲学。他界されても先生のお顔が強く浮かびまなざしも感じる。10日ほど前に誕生祝いに病室に参りましたが、やつれられていましたが故郷の歌とゴンドラの歌を力強く歌ってくださった。故郷へもう一度帰る、それは叶いませんでしたが魂はすでに山野をかけめぐられてるに違いない。会場に飾られた山野草が先生にピッタリです。

ご友人、青山俊樹(アオヤマトシキ)様(独立行政法人水資源機構理事)
建設省東北地方整備局局長のとき、山形経済同友会の代表幹事をされていた先生と出会った。20年くらい前。はじめて話して驚いた。「東京の人はゴミも吸い殻も山に捨てる。山形の人は水垢離して成人してから山に行く。野草は根本からはとらない。途中から折れば次の年に根から生えるから。そんなことも知らない都会の人が山を踏み荒らす。」訥々とした言葉に導かれながら、さまざまな山を案内していただいた。十月頃、大蔵村の錦の紅葉に真っ白な月山が鎮座する。パネルにある小国から見上げた飯豊山系。霧から順々に見えてくる場に先生に導かれた。個人的に、美まし国づくり(うましくにづくり)、をテーマとしているが、本間先生にピッタリ。独立学園の話も何度もうかがった。「営繕係なんですよ。」とおっしゃりながら、鈴木先生の著書なども紹介された。カトリックの私にしてもすばらしい内容であった。うめ子先生のお祝いをロウソクで合唱するとか伺いました。東北、山形、とくに小国をこよなく愛された方でありました。司馬遼太郎が貧しいけれど高貴だ、と残したい日本民族とした。私には生き続けてほしい人が一人いた。ノーブルな本間さん、優しかった、愛する、の深い意味を知ってる方でした。ありがとうございました。ありがとうございました。

卒業生有志コーラス
やまべにむかいてわれ
われはきけりかなたには

故人生涯の映像、スライドショー
小玉川に生まれた頃、学生から仕事を始めた頃。設計した建物の前、結婚式。
大平ホテル1963、事務所新築1964、あすなろ荘、ホテル樹林、
ヨーロッパ視察旅行、天童木工工場、八文字屋、
北欧視察旅行、白布温泉西や改修、いこいの村庄内、
1979飯豊町役場、1985山形美術館、1986小国町庁舎、
山寺風雅の里、東北芸術効果大学1992、最上義満歴史館、
国見町文化センター、旧県庁改修、小国町マタギの里交流間、伊佐沢駅、
酒田市民会館、法務局米沢支局、山形メディアタワー、2003横川ダム発電棟、
2008シベールアリーナ、小玉川小学校、
2010独立学園校舎献堂式、2012独立学園現場、1971−2013独立学園高等学校、
2014山形銀行米沢支店、県立こころの医療センター、山形大学医学部、姫路城仮上屋、
2015小国樽口峠、ぬくみ平(温身)、
飯豊第一小学校、でん六豆工場、県営球場、東海大学山形高等学校、
2017イメージスケッチ
(建築物に表示された文字が小さくて読めず、建築物のメモは半分もできてない)
山形県総合芸術文化会館(山形駅西口に建築中故プレゼンCGで)
未来へ、継承と創造、本間設計事務所

讃美歌489

閉式祈祷 助川暢

後奏 よろずの民よろこべや。主イエス死に勝ちませば

献花、讃美歌コーラスにのせて小国町玉川の野花で

ご遺族挨拶 喪主 本間弘様
各界代表の方々、家族のような設計事務所スタッフのみなさま、告別式に関わってくださった皆様ありがとうございます。お心こもった送る言葉、何よりの言葉をいただきました。飯豊連山をのぞむ樽口峠の光景。そして独立学園の皆様にお願いしたいと申しておりました。校長先生、すべての学園の皆様ありがとうございました。本間は、なにより故郷小国、飯豊が大好きで治療中も行きたいと行きたいといっておりました。お盆に宿までとってましたが足を運ぶことは体調的に叶わず。樽口峠の風景をこうして作っていただき、その中にいる本間利雄は幸せだと思います。3年ほど前、スイガンの診断。手術、重粒子線治療も成功でしたが、しばらくして腹膜に転移してからが大変でした。強い精神力でガンには負けない、打ち勝つのだと戦って参りました。映像をみて万感せまりますが、やはり山形駅西口に鉄骨ばかりになった芸術館、来年その現場に入ることを頼みにしておりました。山大病院からセレモニーホールに向かう途中、現場に立ち寄ったおり、工事従事者の皆さんが、しっかり建てますと誓ってくださった。本間は、そこで下車して現場に入ったのだと信じている。完成を見れなかったことは心残りだっただろう。しかし本間イズムをしっかり引き継ぎ、何をしてる、と本間利雄に叱られぬよう努力する所存であります。小国のブナの原生林が大好きで、いろいろな方をお連れするのが大好きでした。次は誰を、と考えている姿が至福のものだった。本間はまず師匠であり義父(ちち)としてあまりに大きなものです。しかし飯豊のような山にしっかり歩んで近づいて参ろうと思います。神様の元で今はどこも痛くなく、ブナ林を歩いて空気をめいっぱい吸っていることと思います。なんとお礼を申し上げればいいかわからぬくらいお教えをちょうだいしました。本当にありがとうございました。

出棺の前に祭壇と式場を撮影
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出棺(1Fにてお見送りを)

後ろ姿は卒業生有志合唱隊の皆さん
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徒歩数分の火葬場にてお見送り
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