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2016年02月22日23:06

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陰謀の中枢は同じ一族

[竹下雅敏氏]北朝鮮、創価学会、大本教、そして笹川良一などが同じ一族だとわかる系図 〜日本を裏支配している陰謀の中枢〜
https://shanti-phula.net/ja/social/blog/?p=106841

この系図は誰が作ったのかわかりませんが、見たところ正確だと思いました。

系図の初代・上田音吉ですが、記事の中では上田吉松とも表記されています。

系図の出典と共に、記事部分も抜粋して掲載しています。

これを見ると文章に一貫性が無く、所々矛盾した記述が見られます。

おそらくいくつかの文章を繋ぎ合わせ、その間に自分の意見を差し挟むような文章構成になっています。

本来、どこまでが引用でどこからが自分の文章なのかがわからないこうした表記の仕方は問題があると感じています。

全てが自分の文章でない以上、出典を明らかにすべきだと思います。

この記事の原典ではないかと思われる文章を引用しています。

この系図は大変重要で、これを見ると、北朝鮮、創価学会、大本教、そして笹川良一などが同じ一族だとわかります。

そして、このホームページの記事の写真
http://perimari.gjpw.net/majick/?pageNo=22

をご覧になると、例えば2代目裏天皇・堀川辰吉郎と出口仁三郎が一緒に写っています。

その他、堀川辰吉郎に仕えていた人物が誰かもわかるはずです。

こうした連中が日本を裏支配している陰謀の中枢であるのは、もはや明らかではないでしょうか。



転載元より抜粋) blog-imgs-63.fc2.com 14/3/22
http://blog-imgs-63.fc2.com/a/i/o/aioi/20140321232813510.png



転載元より抜粋) 煩悩くん フルスロットル 14/3/22
http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-2751.html

上田家は真田幸村で知られる信州上田を出自とし、生糸貿易から西陣織を支配。またオランダからの輸入雑貨を扱う「尾張屋」を京に出店ており宮中にも出入りしていた。

江戸時代末期の当主・上田吉松はケシを用いた御祓いを看板に全国を徘徊し、公家の密偵を務めていたという。

吉松の五代前の先祖が、幽霊画で知られる丸山応挙(上田主水)です。

上田吉松の子が、創価学会の初代会長の牧口常三郎、北朝鮮残置者の畑中理(金策)、日本財団の笹川良一であり、孫が大本の上田鬼三郎(出口王仁三郎)、創価学会二代目会長の戸田城聖であるという。

ちなみに、明治25年にいとこで愛人の渡辺ウメノと、愛人の出口ナオと3人で東北で大本教を開教した。

上田吉松は青森県下北郡に流れて槇玄範を名乗った。

その後、長男・鬼一郎に下北郡の医師・槇玄範を継がせ、自らは死去を偽装し氏家省一郎と称した。

鬼一郎の子が笹川良一と陸軍中野学校出身で北朝鮮残置謀者となった畑中理(金策)。

新潟県柏崎市の漁師・渡邊長松とイ子(いね)の間にはで双子の兄弟が誕生しているが、但し、それは戸籍上であり、渡邊長松が海で行方不明になってからイ子は双子を生み、離婚している。

この時、イ子に接近していたのが上田音吉。

双子はそれぞれ「父親知らず」としてと逸見家と牧口家に養子に出されたという。

兄が逸見十郎太(戸田城聖の父)で弟の方が創価学会の初代会長の牧口常三郎。

初代の上田吉松と妻の宇能(中村孝道の姪)との間に生まれたのが世祢(よね)。

「初代吉松」はなぜか突然、娘の世祢19歳の時、兄弟(世祢にとっては叔父)の経営する伏見の船宿に養女に出す。

その船宿は有栖川宮熾人親王のお忍びでの定宿。

ところが何故か世祢は突然上田家に戻り、二代目吉松(船井郡川辺村船岡の紺屋、佐野清六の次男)を婿に迎え、鬼三郎(出口王仁三郎)を産んだ。


転載元より抜粋) 紀州文化振興会 日付不明
http://www.kishu-bunka.org/yoshizono.html

穴太村を本拠とする上田家の家伝では、上田の本姓は海部で、丹後一宮の籠神社の神官から出た旧家である。

海部・上田家は、古代に渡来したイスラエル族の子孫で、なかでもアヤタチと呼ばれた特殊の家系という。

これは、戦前の皇国史観や戦後の弥生史観に泥んだ耳には荒唐無稽に聞こえるかも知れぬが、他の伝承などに照らしても、充分首肯しうるものである。

さらに、古くからオランダ取引をしてきた上田家には、夙にオランダ人の血が入り、吉松の五代前の先祖で画名を丸山応挙として知られる上田主水も、オランダ血統であったという。

幕末の当主は上田吉松で、「言霊呼び」という御祓いをしながら、全国を巡ってケシ薬を売り、裏では朝廷の諜者として働いていた。

その子が上田鬼三郎(注・これが本名で、どこかで喜三郎と変えたらしい)で、すなわち後の大本教(皇道大本)の聖師出口王仁三郎である。

渡辺家に嫁いだ吉松のオバ(叔・伯は不明)がウメノを生むが、そのオバがケシ薬の秘伝を渡辺家にもたらしたものと考えられる。

いとこのウメノを愛人としていた吉松は、同じような関係にあった出口ナオと図って、明治二五年に皇道大本を立ち上げるのである。

なお、周蔵は大正三年に青森県下北郡の古畑温泉で吉松に会ったことを手記に記している。

吉松の没年は、伝えられている明治初年とは大違いで、本当は大正年間まで長生きしたのである。



転載元より抜粋) 匿名党 07/7/17
http://tokumei10.blogspot.jp/2007/07/blog-post_17.html

悲しき秀才 さんのコメント...

ご存知の方が多いと思いますが、混乱される方がいるとまずいので念のため。

「上田吉松」は二人います。初代と二代目。

「初代吉松」は元から上田家で、妻は宇能(中村孝道の姪)。

この「初代」と宇能の間に生まれたのが世祢(よね)で、この世祢のところに婿(養子)として
??5歳の時にやってきたのが「二代目吉松」。

戸籍では船井郡川辺村船岡の紺屋、佐野清六の次男。

世祢が産んだのが上田喜三郎(出口王仁三郎)。

「初代吉松」と中村孝道の関係などは、大本サイドからの文献では全くたどれないみたいです。

その父の久兵衛に関しても同様。

で、「初代吉松」はなぜか突然、娘の世祢19歳の時、兄弟(世祢にとっては叔父)の経営する伏見の船宿に養女に出します。

で、なぜかその船宿は有栖川宮熾人親王のお忍びでの定宿。

で、何故か世祢は突然上田家に戻り、二代目吉松を婿に迎え (以下略

千家尊福(出雲大社宮司・貴族)については、大本が「どマイナー集団」だった時代に門外不出の「出雲のご神火」を気前良く下げ渡してますね。

その後も突然大本を訪問したり。

私の専門分野でしたのでつい長文になりスミマセン

2007年7月18日 2:36


【2016年02月21日 SMAP解散は台本どおり 2】

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コメント

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