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2007年08月19日10:22

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右京の南北大路小路名(つづき)

17日の日記のつづき…

右京の大路小路名が江戸時代には左京と同一名と伝承されていた。
−複数の地図・寛政9年と天保14年との地図で確認できる−また昭和初期の歴史副読本なのですが道祖と木辻の大路名だけが独自で西大宮大路も大宮とだけ書かれて左京と同一名の平安京図もあります。−掲載図−

しかし今では独自の呼び名であったとされている。とすると考えられるのは2つ…
大路小路名としては無かったか若しくはその名で呼ばれていたが江戸時代には記録が失せていた。いずれにせよ後世の学者が公文書か貴族の日記かで確定した…となるだろう。

で、実態はどうかというと平安京の遷都当時は南北道路は朱雀と両京極の大路しか呼び名がなく場所の特定は坊条制に従い×京△条○坊◆町としていたが平安中期頃から大路小路名で指し示すようになった と聞く。

右京は平安中期には寂れていたとされているが、それは現在の西院・西七条あたりのことで右京の荒廃で引き合いによくだされる池亭記も北野は栄えていると記している(らしいw)

とすると現在の一条から丸太町までの間には人家もまだまだあり南北道も機能していたのではないだろうか?その道に附けられた名称を延長して平安京全体に敷延したのが宇多小路なり野寺小路という名称ではないだろうか?
木辻にしても馬代にしても現行の地名が花園あたりなのも傍証になるかもしれない。

それにしても朱雀大路から西堀川までの名称が全て西を頭にいだく名称−西坊条小路…西堀川小路なのも気に掛かる。このあたりが寂れていく右京では一応人家密集地だったらしいのだが…
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