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2018年08月11日07:26

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行為と倫理について(8)

6事実と当為、自然主義的誤謬 (naturalistic fallacy)
 既に「当為」という用語が登場した。事実についての命題は「―である」という形をしているが、当為的な命題は「―べきである」という形をしており、私たちは生活の場でこれら二つの形を適宜使い分けている。道徳的な命題は確かに「―べきである」という命令形の言明を含んでおり、それが物理学や心理学の言明と際立って異なった特徴となっている。この表現形の違いから、科学と倫理は根本的に異なったものであるという判定が下されてきた。では、このような判定には十分な理由があるのだろうか。前の5の3つの解答を念頭に置き、考えてみよう。

殺人はいつも道徳的に正しくない
殺人は時には道徳的に許される

上の二つの文は共に倫理的な言明であり、日常生活ではいずれの言明も有意味な言明として登場する。だが、二つの言明は一方の否定が他方になっている(各自確認してほしい)。したがって、いずれか一方だけが正しいはずであるが、主観主義はこの事を否定する。主観主義によると、どのような倫理的言明も真でも偽でもないのであるから、上の言明は共に真ではない。客観主義ではいつでも一方だけが正しいはずである。また、規約主義では規約が異なれば二つの言明はそれぞれ真になったり、偽になったりする。
 ヒュームは主観主義の代表者である。彼にとって倫理は殺人に関する主体の感情の中に見出される以外のものではない。殺人が非倫理的かどうかについての客観的な事実はどこにも存在しない。客観主義の代表である倫理的実在論は倫理的主観主義と対立する。実在論によれば、倫理にはそれに対応する事実が存在する。実在論者はどの行為が正しく、どの行為が間違いかがいつも明らかであるとは主張しないが、倫理には誰かの意見とは独立した真理があると考える。
[事実と当為の関係]
 ここでは倫理の主観主義と実在論の二点に限って話すことにしよう。最初はヒュームの区別、つまり「である」言明と「べきである」言明の区別についてである。伝統的に事実命題と当為命題と呼ばれて区別されてきたものである。二つの命題の違いは次の例文で明らかであろう。

太郎は学校を休んだ。
次郎は学校に行くべきである。

ヒュームは「である」言明だけからは「べきである」言明が演繹できないというテーゼを擁護し、例えば、次の推論は演繹的に誤りであると考えた。

楽しみのために人を拷問にかけると大きな苦痛を引き起こす。
それゆえ、楽しみのために人を拷問にかけるべきではない。

この結論は前提から演繹されない。しかし、次のように前提が補足されれば、この推論は演繹的に妥当なものになる。

楽しみのために人を拷問にかけると大きな苦痛を引き起こす。
人に大きな苦痛を引き起こすべきではない。
それゆえ、楽しみのために人を拷問にかけるべきではない。

この推論は最初の推論と違って、「べきである」言明をその前提の一つにもっている。ヒュームのテーゼは、「べきである」言明を結論とする演繹的に妥当な推論は「べきである」言明を少なくとも一つ前提としてもたなければならない、となる。ヒュームのテーゼから主観主義の主張は導出できるだろうか。その導出のためには還元主義的な前提、つまり、もし倫理的な言明が事実言明から演繹できないなら、「倫理的言明は真でも偽でもない」という言明が正しくなければならない。
 ヒュームのテーゼそれ自体から主観主義は帰結しない。しかし、それは次のような主観主義のための推論に役割を演じている。

(1)「べきである」言明は「である」言明だけからは演繹できない。
(2)もし「べきである」言明が「である」言明だけから演繹できないならば、どのような「べきである」言明も真ではない。
それゆえ、「べきである」言明はどれも真ではない。

前提(1)はヒュームのテーゼである。前提(2)は還元主義的仮定である。疑いは前提(2)にある。倫理は純粋に「である」言明から演繹できないという事実が、どんな倫理的言明も真ではないことをなぜ示すのか。なぜ倫理的言明は還元できなくとも真ではあり得ないのか。ヒュームのテーゼは演繹的推論についての主張であることに注意したい。観察できない存在に関する理論は観察可能なものだけの前提からは演繹できない。しかし、そのことが観察できないものについての理論が常に真でないと考える理由にはならない。これをヒントに、上の推論図式を具体的に考えてみよう。

倫理的な言明が事実についての前提だけから演繹できないなら、倫理的な言明は真でも偽でもない。
事実についての前提だけから倫理的な言明は演繹できない。
したがって、倫理的な言明は真でも偽でもない。

これがヒュームの推論である。この推論が正しいかどうか見るために、次の推論を考えてみよう。

生物学的な言明が物理学的な前提だけから演繹できないなら、生物学的な言明は真でも偽でもない。
物理学的な前提だけから生物学的な言明は演繹できない。
したがって、生物学的な言明は真でも偽でもない。

二つの推論を比べてみよう。いずれも、p→qとpからqが演繹される形になっており、論理的には正しい推論である。だが、生物学に関する推論の内容を正しいと思う人はいない。というのも、結論は明らかに誤っているからである。しかし、この推論の内容が誤りであることから、すぐにヒュームの推論内容も誤りだと断定する人も少ないだろう。というのも、「倫理的」と「生物学的」は単純に比較できないと考えられているからである。「倫理的」の代わりに「宗教的」を代入すると同じような推論がさらに得られるが、この場合は「宗教的な言明は真でも偽でもない」という結論を積極的に肯定する人さえいるだろう。だが、次の例はどうか。

法律についての言明が事実についての前提だけから演繹できないなら、法律についての言明は真でも偽でもない。
事実についての前提だけから法律についての言明は演繹できない。
したがって、法律についての言明は真でも偽でもない。

私たちは上の推論の結論を決して受け入れない。「生物学的」、「宗教的」、「法律的」と「倫理的」との間に何か関係があるのだろうか。「倫理的」をどのような意味と考えるかに応じて、つまり、「生物学的」や「法律的」に近いものと考えるか、それとも「宗教的」に近いものと考えるかに応じて、ヒュームの推論は誤ったものとも正しいものとも受け取ることができるのである。「倫理的」とはこの世界で起こる事柄についてのものであり、この世界にあるものを使って「倫理的」を特徴づけようとすれば、「生物学的」と同じレベルで考えるというのが自然であろう。これが倫理や道徳についての自然主義である。この自然主義の立場から「倫理的」なものについての考察を続行してみよう。
 ところで、「法律的」に近いと考えれば、倫理の規約主義ということになる。ヒュームのテーゼから学ぶことができるものがある。生物学的な前提がある倫理的な結論を導くために使われるとき、背景には倫理的仮定がなければならない。例えば、ウィルソン(Wilson)は同性愛が自然に見出され、したがって、異性愛と並んで自然な行動であると指摘した。このことから、同性愛について非道徳的なものは何もないと結論できるだろうか。もしすべての自然的な行動は道徳的に許されるといった倫理的な言明が仮定として受け入れられるなら、そのように結論できるだろう。そこで、次は倫理的主観主義の二番目の推論を考えることにしよう。

(問)「物学的」、「宗教的」、「法律的」、「倫理的」という語がそれぞれどのように関連しているか、本文からまとめてみよ。

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