mixiユーザー(id:9665296)

2018年07月26日17:43

284 view

【1990GW】初めての九州旅行

先祖の墓参りを口実に生まれて初めて九州の地を踏んだのは1990年の4月でした。平成時代の二年目は自分にとっては社会人になって二年目でもありました。大学での研究生活に見切りをつけて、景気の良かった化学会社へのバブル入社で実学に転じて二年目、農薬探索のラボで構造活性相関(化学構造式と実際の生理作用との関連)の研究とデータベース作成に取り組んで半年が経っていました。

体育会系の社員の多い職場と社員寮の雰囲気にスポーツの不得意な自分もすっかり染まって、ボートのサークルに入って6月から11月に掛けては霞ケ浦での朝練に参加してから出社することもありました。1983年の3月以来の人生3度目のスキーが2月、スキーウェアを購入して、以来17年間スキーは冬に欠かせない行事になりました。一方で大学の後輩&会社の先輩が主催するコーラスの練習にも参加して会社での音楽活動の場も獲得したのでした。

大学院に進学して人づきあいが減っていたのを、田舎の研究所の錯綜した人間関係ですっかり解消したつもりになっていました。学生生活の終わりころに目覚めたひとり旅の方は、この一年間に東北(一年前のGW)、山陰・山陽(前年の盆休み)、北陸(10月の連休)、京都・奈良(4月の会社の創立記念日を利用)と出かけていたのは、宴会やスポーツなど行事が盛りだくさんの会社生活に飲みこまれずに社外での活躍の場を求めるせめてもの自分なりの防衛手段だったのかもしれません。

旅への出発は4月28日の午前6時でした。一週間前に新調したリュックサックに荷物を詰めての出発です。茨城県稲敷郡阿見町の会社の独身寮。新人の一年目は四畳半の部屋、二年目に六畳の部屋へ移動というしきたりがあり、生活の快適度が増したばかりでした。バス停に向かうところで女子寮から出てきた3歳年下の先輩女性社員の高松さんと上野駅までご同行です。バス停では前日の宴会の朝帰りと見受けられる高橋副主任研究員(触媒開発担当)に会いました。高松さんは青森の実家への帰省するところでしたが、私が九州に一人旅に出かけることに感心している様子でした。(高松さんは休みが明けて間もなく結婚退職で会社を去りましたが、私はこの時は何も知りませんでした。)

東京駅にちょうど来ていた「ひかり」は満席だったので次の「ひかり」の自由席に新大阪まで座っていき、新大阪からは「こだま」に乗り継いで岡山へ。新幹線や高速道路を使わない経路を一度は味わっておきたいという、私なりの旅へのこだわりがありました。過去に東京から大垣夜行で三度も西へ向かったのもその例で、一年前の卒業旅行は四国へ向かう際に京都から岡山まで普通列車に乗ったので、今回は岡山から博多まで普通列車での旅路を繋げることを決めていたのでした。岡山駅での乗り換え時間は少なかったけれど、駅のホームでうどんを食べる時間は取れました。薄味のスープが西日本風でとても美味しいと思いました。広島まで三時間。瀬戸内地方は日の光が明るくて、電車の車内まで華やいだ雰囲気になったように感じられます。外の田舎の景色も新緑がきれいな上、ところどころで藤の花の薄紫やレンゲソウのピンク色の花に彩られた春の盛りの風景に心が和みました。岡山弁も何度となく耳に入ってきます。

九州に初めて足を踏み入れる前に広島で一泊することにしました。駅前のコインロッカーに荷物を預けて紙屋町付近を散策。やたらに人通りが多いと思ったら、ちょうど広島市民球場で中日との試合が終わったところでした(7対3だったかカープの勝利)。球場の裏手では女子高生などが選手の出待ちをしていました。中日の選手は次々にタクシーに乗り込んで球場を後にしています。平和記念公園の緑も濃く、原爆ドームは補修工事が済んで錆びた鉄骨もペンキを塗られてきれいになっています。

市内散策で夜半まで過ごしました。「お好み村」へ入ったのはこの時が初めてでしたが、間違えて「焼きそば」だけを注文してしまい、ソースの濃厚な焼きそばでの腹ごしらえとなりました。数多くの客引きが声を掛けてくる繁華街を歩きまわった後、二年前の初めての本格的なひとり旅の際にガイドブックを見て入った「三ちゃん」へ。ネギ焼きのお好み焼きにビールとおでんも追加しました。テレビのプロ野球ニュースではロッテがパリーグで現在一位になったことを伝えていて女将さんが驚いていました。夜の広島の食べ歩き、お好み村へ戻って今度は焼きそば入りの本格的な広島風お好み焼きで腹が一杯になりました。市電も終わった時刻になり歩いて広島駅に戻り、駅前のサウナに宿泊。朝5時に出発して、山陽本線の下り列車を待つ間に前日の日記を書き綴りました。

4月29日は広島から柳井まで山陽本線に乗り、早朝の柳井市内を散策。白壁の街並みまで駅から5分でした。前年の夏に寄った広島県の竹原と似た風景ですがスケールは小さめ、特産の醤油の原料の匂いがどこからともなく漂ってきます。中心部の川の中に鯉が泳いでいるところは、二年前の同じころに寄った栃木市と似た風景ですが、栃木の巴波川(うずまがわ)より水も柳の緑もきれいでした。修学旅行の制服姿や地元の中学生のトレパン姿で溢れる前に、早朝の柳井の街を後にしたのはまだ8時すぎでした。

柳井を出発してから下関までの電車内でかなり睡眠不足を解消しました。下関駅の混雑で九州へ渡る電車には3分の乗り換え時間では間に合いませんでした。11:57発の熊本行きの列車に乗りこみましたが、時間が掛かりそうなので途中の駅で快速に乗り換え、久留米に到着したのは14:05でした。父方の祖父が久留米の出身で関東大震災の前に東京に出てきて、今は血縁者が誰もいないのですが、父の従兄弟の奥さんが一人で暮らしていて案内の手紙を貰っていたので墓参りだけでも帰省のつもりで久留米に寄るのが旅の名目だったのでした。

JR久留米駅の周辺は麦畑が広がって初めて来た土地なのになんとなく懐かしい気分になりました。市街地の近い西鉄の久留米駅まで歩いて荷物を預けて、頂いていたメモを見ながら順光寺を目指しました。浄土真宗の寺で住職は剃髪していない腹の出た中年のおじさんでした。「下村家の墓」を探していると言っても広島の人でしたか?と別の墓へ案内されそうになりましたが、無事に先祖の墓を見つけて詣でることができました。線香も上げることができました。「下村家累代墓」は40年以上建っていて、20年ほどほったらかしで根元があぶないので管理をどうするか考えてほしいと言われました(それから28年、何度か訪れていますがメンテナンスをしたことはありません)。順光寺には青木繁の墓もあり、画家の生涯と作品についての解説を書いた札も立っています。

ガイドブックに紹介されていた久留米ラーメンの「瀋陽軒」へ入ってネギとチャーシュー入りの350円のラーメンを食べました。白く濁った豚骨スープはマイルドな味で塩味もきつくなく、九州での最初の御馳走でした。西鉄で福岡へ引き返しましたが、博多の街の歩き方の見当がつかず、そのまま西鉄で引き返して二日市で乗り換えて大宰府へ向かいました。大宰府は道真公の時代から立っていそうな大木が新緑に覆われている様子が見事でした。神社はごく普通の名所という感じに賑わっていました。

7時近くなっていましたが十分に明るい中で、大宰府ユースホステルを目指して住宅街を歩きました。道に少し迷って向こうからやって来た10代の少年に道を訊いたりしました。YHには10分以上の遅刻で、すでに夕食が始まっていました。高校生の女子サッカー部のチームが泊まり合わせていて、受付で私が苗字を名乗るのを聞いて、若原一郎の「おーい!中村君」(三十年以上前のヒット曲!)の替え歌を口ずさむ子がいました。ユースホステルのガイドブック通りに6匹の室内犬が走ってきてお出迎えです。ペアレントのオバサンは優しく親切な人ですが、この日は高校生の宿泊者の応対に疲れてしょっちゅう腰をさすっていました。

一般の宿泊者もバイク旅、自転車旅、鉄道旅と様々でした。オーストラリア人女性二人を同伴した韓国人男性は英語と日本語の両方とも達者でした。岡山の20代後半と思われる男はなにかと女子高生を構おうと働きかけています。九州の歴史を訪ねて旅している男の人はクラシック音楽の愛好者でもありましたが、カラヤン、ショルティ、マゼール、ムーティのような精緻で人工的な音楽が好きでないという私の趣味を少し不思議がっていました。韓国人の男はオーストラリア人のオバサン二人を京都に連れて行くそうです。日本語での旅談義を続けようとしたら、英語で話してくれと頼まれました。私のしゃべり方がかなりの早口で滑舌が悪く、その上、関東出身なのに過去の交友関係の影響で関西訛りが多分に混入していて、外国人にとって模範にはほど遠い日本語話者と見なされたのに違いありません。先ほど東山YHの予約に成功したとのこと。私の京都旅行経験はまだ浅く、東山YHは三週間前に宿泊したばかりでしたが、とりあえず清水寺と竜安寺を勧めておきました。

4月30日の出発は広島と山口の女の子二人組と話す機会を狙って9時頃まで遅くなってしまいました。クスノキの緑がまぶしいくらいに萌えている大宰府の景色の見学もそこそこに慌ただしい出発になりました。福岡まで西鉄で北上し、天神地下街のおしゃれな賑わいを眺めたあと地下鉄でJRの博多駅へ向かいました。この先は初めての九州旅行で一周することが目的なので、普通列車での旅はここまで、「九州ワイド周遊券」を活用して特急の自由席乗り放題の旅路に乗り換えです。博多の街は思ったほど美人が多くなかったけれど、関東よりはレベルが高く「ブス」の割合は明らかに少なかったというのはその時の正直な印象です。

特急「かもめ」で佐賀へ向かいました。今回の旅では佐賀県だけ宿泊予定がなかったので、せめて駅前から城跡までの散策でも済ましたいと思っていました。YHで会った男性の旅人からは吉野ヶ里遺跡を勧められましたが、今回の旅ではスケジュールが合わず、吉野ヶ里遺跡の見学は6年後でした。九州はすでに暑くてセーターも要らないくらい、佐賀の街には見どころがあまり見つかりませんが、静かで感じがよく明るくしゃれた雰囲気も感じられました。城跡も大したところではないけれど新緑がきれいでした。13:23佐賀駅発の「かもめ」で長崎へ向かいました。車窓には裾野の広い雄大な山の風景が広がって、これこそが九州の列車の車窓の魅力と思いました。なだらかな山肌に原生林らしい様々な色調の緑に包まれた山もありました。

長崎駅に到着したのは15時です。電車の中からも山の斜面に頂上までびっしりと家が立て込んでいる長崎特有の景色が目に入りました。長崎ユースホステルに荷物を預けて、早速身軽なスタイルで市電を使った街の散策に繰り出しました。路面電車を松山町で降りて原爆落下中心地の碑から浦上天主堂へ。中へ入れる時間ではなくステンドグラスの美しい教会内を入り口のガラス越しに覗けるだけですが、離れた位置からの天主堂の姿も立派です。平和公園の右腕を天、左腕を水平に伸ばした体格の立派な青年像だけでなく、各国から贈られた平和記念像に見ごたえがありました。特に中国からの「乙女の像」の清楚さとグラマラスさを持ち合わせた姿には魅了されました。像のモデルは漢民族ではなくて西域の少女ではないかと思いました。「乙女の像」は長崎に来るたびに眺めるお気に入りの彫刻となったのですが、21世紀に入ってからシースルーの服から浮き出て見える体の一部に修正が入った(数グラムの大理石片を削り取った)らしいのが残念です(この事実を指摘したコメント等は検索してみましたが、まだ見つかりません)。

出島のあたりは歴史の教科書で見たような雰囲気はほとんどなく、狭い路地を走る路面電車の踏切に信号がなく、踏石に並ぶ道も狭くて、危なっかしくて他県ナンバーの車がうっかり入ったら事故を起こしそうでした。昔日の面影はほとんどないけれど、古い商館が少し残るあたりに趣があり、江戸時代の出島のミニチュアも見て楽しいもので、それなりに長崎の散策を楽しみました。出島から繁華街へ。チャンポンの食べられそうな店は高級な中華料理屋ばかりで、アイスクリーム店のように入りやすい店を見つけて650円の長崎ちゃんぽんを食べたら、スパイスがきついけれどまあまあの味でした。入った店は「リンガーハット」、本場でわざわざ全国チェーンの店に入ってしまったことに気づいたのは旅の後ですが、リンガーハットには後に、鷺沼、四日市、奈良、伊勢佐木町、柏などの店を愛用するようになったのでした。

あまりきれいでない川の上に掛かる眼鏡橋も散策の楽しい街のシンボルとしてカメラに納め、ユースホステルまでは徒歩で戻りました。バイクに乗ってきた長身の白人男性が停車して「めがねノ橋ハ、ドコデスカ?」と訊いてきましたが、道路標識に気づいて「ヴォアラ!(Voila! あそこだ!)(フランス語)」と叫んで通り過ぎました。大宰府ユースホステルで会った女の子二人組とすれ違いましたが、これから街で食事を楽しむそうでした。長崎の街はカップルが多く、連れている女子もハイレベルで一人旅からは羨ましい状況に思われました。

夕食の席で話をしたのはほとんど男ばかりでした。公営の大規模な長崎ユースホステルですが、女子旅行者は居室に閉じこもっている人が多くて話す機会には恵まれませんでした。9時頃に外人さんを夜景見物に案内するという人がいたので仲間に入れてもらって、5人でタクシーを呼んで稲佐山へ出発。工事中の箇所が多くてひどい渋滞にハマったので、山の中腹でタクシーはUターンの準備をして待ってもらいナンバーを覚えて、歩いて頂上へ向かいました。登って来ただけある素晴らしい夜景に対して、長崎に詳しい同行者の一人が浦上はあちら、明るくなった辺りがグラバー園、港の景色についても説明してくれて、外人さんも満足だったようです。ユースへの帰館は10時ちょうどでした。11時前に二段ベッドの上段でカーテンを閉めスタンドの明かりをつけて、長崎到着から6時間分の日記をしたためました。

5月1日の出発は8時半。平日だったので通勤・通学客で混んで路面電車は3本も見送りました。長崎駅のコインロッカーに荷物を預けたところで、YHで会った男に会い、彼が別のユースで会った男もやってきて、グラバー園、オランダ坂方面まで同行しました。大浦天主堂への道は土産物店が並んでいかにも観光地風の雰囲気でした。グラバー園は、グラバー邸以外にもいくつかの由緒のあるお屋敷を見学できて幕末から明治時代の外交官の優雅な暮らし向きが偲ばれました。グラバー園からの長崎港の風景や稲佐山の眺めもきれいにカメラに収まりました。

オランダ坂は石畳が残るだけで名所らしき物はないけれど、裏道へ抜けると尾道を思わせる古い街並みがひしめき合って味わいがありました。猫が四匹も出てきました。長崎の街の雰囲気を堪能するのは一泊では足りないようです。島原や柳川に出かけるのも見送って、11:04発の「かもめ6号」で熊本へまっすぐに向かいました。

熊本駅からは市電で中心街の交通センターへ。熊本の路面電車は右左折で直角に曲がるたびにガクンと衝撃が走るのが新鮮でした。交通センター地下の熊本ラーメン「こむらさき」は定番の店ですが空いていました。白濁したスープは脂が浮いていますがあっさりした食べやすい味です。「こむらさき」はその後の九州旅行で熊本を通過する際に必ず寄る店となります。

熊本の街は色の白い美人の姿が目に付くように思ったのは初めての旅の時からでした。「課長島耕作」で熊本は可愛い女の子が多いというセリフ(島を左遷しようとした部長のセリフ)を見かけたのは翌々年でしたが、旅先の人々に対する私の観察眼も確かすぎます。熊本城の石垣があまりにも立派で天守閣まで登ってたどり着くまで前方に要塞の様に立ちはだかり続けました(2016年の地震で崩れなかったのは加藤清正の築いた部分の石垣だったそうです)。城跡のクスノキの新緑の美しさも格別です。天守閣は昭和35年の再建でコンクリート製ですが外観は昔の姿を正確に再現したものだと思いました。内部は階段も鉄製で展示物が多数ありました。創建当時そのままの宇土櫓を見学する人が少ないのが不思議でした。整然と木材が組み合わされた造りが印象的で、所々に丁寧な修復の跡があり、防火設備も完璧です。(熊本地震ではコンクリート製の天守閣が無残に崩れたのに対して古い宇土櫓は持ちこたえたそうです。)

宿泊先の熊本市立ユースホステルは市街地から離れた山中にあり、交通センターからバスで20分ほど掛かりました。YHの案内板が見える場所から更にぐるりと回って目の前に山が迫る場所で下車。自然に囲まれた公園内ですが、老朽化しかけた建屋です。自転車で福岡から九州を回って阿蘇へ行ってきたという男がいて、両脚とも真っ赤に日焼けしていました。別の自転車旅の男は、私の中学校の同級生でした。同じクラスになったことはなく話をしたことも無いのですが、共通の友人(ヴァイオリンを弾く男)やお世話になった理科の先生(ベテランの女性)がいました。化学会社に勤務は私と同じなので名刺も交換。彼が文化祭の弁論大会で芥川龍之介の「河童」について講演したことを私が思い出したのはあまりいい記憶ではなかったようです。

女子ホステラーが多数宿泊していましたが、バイクの旅ばかりで話し相手に相応しい人は見つかりそうにありません。ユースの食事は簡素でしたがサバの塩焼きが非常に美味しくて、熊本の食べ物が安くて美味しいことを実感しました。ユースの風呂は狭くてお湯の出が気まぐれで水しか出なかったりしました。すでに絶滅に向かっていたユースのイベント、ミーティングがありましたが、内容はとりあえずの自己紹介に引き続いてペアレントさんによる簡単な熊本の案内でした。加藤清正が攻められにくい街づくりをしたので、明日の夕方までに熊本を出られたら幸運ですよ!と冗談もありました。

ミーティング後は自転車旅行のカップルが二人の世界に入っていたりして、ユースホステルの風景として愉快ではありません。所在なく壁の熊本の地図と時刻表を眺めていたら、ピンク色の部屋着の金髪の白人の若い小柄な可愛らしい女の子がやってきて、翌日のバスの時刻表を見ながらの会話が始まりました。フランス人の可愛い女の子が一人旅をしているとの情報をどこかのYHで聞いていたのですが、自分が実際に出逢うとは思っていませんでした。フランス語なまりは明白ですが、日本語が達者というレベルを越えて東京の若い女の子のしゃべり方を修得していました(どうしようかなぁ?なんていう口調まで板についています)。外国人で一番日本語の発音がきれいなのはフランス人だと思い込みそうになります(フランス人の英語の発音の悪さもいろいろな所で実感していました)。

5月2日はあいにくの雨でした。前日の夜から雨にたたられる旅行となったのでした。ユースホステル前の栗山停留所を7:57分に出発するバスに乗りました。フランス人女性はもっと早いバスで出発してしまった模様です。「かもめ7号」にのって九州をさらに南下。新型の車両で前半がグリーン、後半がオレンジのシートで、スポーツ車のような硬めの座り心地が快適でした。車窓の有明海が緑色に透き通って天草諸島の島影も見えました。雨がちでパッとしない天候が残念、晴れていたら真っ青な海の輝きが美しかったことでしょう。体調が今一つ、喉の調子の悪さで朝方に目を覚まし持参した吸入剤で気管支喘息の発作を治めたりしていたので、列車の中の時間も睡眠不足解消に充てることにもなりました。目を覚まして気が付くと、窓の脇に車内サービスでアメが二粒置いてありました。

西鹿児島駅で指宿枕崎線に乗り換えて薩摩半島の先端を目ざしました。すぐに窓から桜島が静かに噴煙を吐いているのが見えましたが、雨に煙る桜島をヤシの木を前景に撮影しようと思っている内にシャッターチャンスを逃してしまいした。駅員のいる駅では最南端の駅である山川駅(無人駅では西大山が最南端)で下車してバスに乗り、長崎鼻を目指しました。「長崎鼻入口」の停留所で降りそうになったのをバスの運転手さんの指摘で早まらずに済みました。広大なパーキングエリアを抜けて雨の中を歩いて灯台方面へ向かいました。最果ての地の青く澄んだ海が風で大荒れに荒れて絶景でした。岩の上にカメラを置いて、開聞岳をバックにセルフタイマーで記念写真を撮影しましたが、後に現像したら15度くらい傾いた写真になっていました。アベック(当時はこの言葉も使われていたらしい)の姿も多く、記念写真のシャッターを頼まれたので、こちらからも開聞岳と長崎鼻の文字をバックの写真をお願いしました。薩摩半島の先端は、その後二回(一回は自分の車で)訪れていますが、沖縄にも行ったことのない私にとっては今でも世界の南限です(日本の北限の宗谷岬には1994年に足を延ばしたことがあり、世界の北限は1999年の海外出張先のイギリスの湖水地方でした)。

宿泊先の指宿ユースホステルは指宿駅から10分くらいの住宅街の中でした。少し高級な一戸建ての民家という感じで、玄関を入ったロビーでのソファーでホステラーが寛ぐことができます。居室も明るくきれいでベッドが置いてあり、裕福な友達の家に泊めてもらっているような気分を味わいました。ただし食事の質は少々落ちて、あまり美味しくないフライを食べさせられました。

大学の後輩の高橋君(現在、東北の薬科大学の準教授で計算化学の専門家)をはるかに凌ぐ「鉄ちゃん」に出会いました。ユースホステルには先ほど入会したばかりですが、やたらに人懐こくて、夢中になって鉄道を語ります。四日市の富士電機の社員だそうです。鉄道は文化を運ぶ!同じ陸上交通でも鉄道とバスではソフト・ハード共に違う!と何度も強調し、大社線の廃止に伴い、行商のオバチャンはもう新鮮な魚を売り歩くこともなかろうと残念がっていました。到着したホステラーの居住地を聞くなり、すぐに当地の鉄道の話に持っていくあたり、筋金入りの鉄道愛好家で、彼の鉄道の趣味は深い教養のレベルに達して人間性の一部になっていると実感しました。

その日に彼に出会って話し込まれ、ユースホステル入会のきっかけを作ったのは、本来は「学術目的」で旅をしているという東海大の大学院生の女性でした。筑波大を受験して落ちたけれど、東海大の民俗学のお目当ての教授について学んで卒論を書き上げたところだそうです。名古屋からは旅行好きの若いOLらしき女性、色白でぽっちゃり気味でおっとりしたしゃべり方、長いまつげも可愛らしい人でした。秋田出身のバイクの女性は四日市の鉄ちゃんに秋田の鉄道事情を話されたことに半ば呆れ、半ば感心し、自衛隊の男は初対面の鉄ちゃんに尾形大作(「無錫旅情」の歌手)に似ていると言われました。

宿泊者のほぼ全員が指宿名物の砂むし温泉へタクシー、バイク、徒歩でそれぞれ出かけました。バスローブを羽織っての砂風呂。名古屋の女性はバスローブの上からもグラマーな体形が浮かび上がって、バスローブの下は何も付けてないことを思って妙な気持ちになりかけました。夕暮れの海岸で波の音を聞きながらの砂風呂ですが、私の場所は今ひとつの熱で眠くなりそうで飽きてきました。ところが隣の大阪人のところは熱かったそうで、途中で「熱っ!」と叫んで飛び起きました。飽きた私と熱さで飛び起きた大阪人の二人で出ようとしたら、名古屋の女の子に気持ち良さそうに砂に浸かる写真のシャッターを頼まれました。

(続く)
0 3

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する