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2018年05月17日05:56

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「諸行無常」、「色即是空」はなぜ真なのか(7)

縁起の物理学:力学的な決定論(1)
 どんな出来事にも原因があるというのが因果的な決定論の伝統的主張である。この形而上学的主張は、ニュートンの力学によって物理世界の決定論として精巧に具体化された。ニュートンの決定論に洗練された、見事な表現を与えたのはラプラスの魔物(物理学者ラプラスが思考実験で考えた架空の万能者)である。ラプラスの決定論は、すべての事象は原理上正確に予測できるという普遍的決定論(Universal Determinism)である。原理上予測できない事象はなく、例外は許されない。だから、予測できない事象があったとすれば、それは私たちの無知のためである。だが、これは私たち自身の予測、予言を含めた思考が決定論の範囲内にあれば成立しない(なぜか?私たちが自らの予言を破れることを考えてみよう)。それゆえ、私たちが「知る」ことは世界の中にはなく、世界は私たちが知る、知らないということとは独立している。確率は物理世界にはない私たちの無知のゆえに導入される。ある事象がどのくらいの確率で起きるかということは決定論的世界では何の意味ももっていない。決定論的世界ではどのような事象についてもそれが起きるか、起きないかのいずれか一方であり、起きるなら確率1で起き、起きないならその確率は0である。
 私たちはコイン投げやサイコロ振りを確率的な出来事の典型例だと考えている。実際、公平なコインは表、裏の出る確率が1/2とみなされ、それをもとに確率モデルがつくられる。このような確率的な出来事は私たちの生活にすっかり馴染んでおり、公平な選択のためにコインやサイコロが使われ、時には賭けの道具にもなっている。しかし、ニュートン的な普遍的決定論が正しいとしたら、公平なコインを投げた場合の表か裏かの結果は決まっていないのだろうか。ラプラスが生み出した魔物はコイン投げについての完璧な知識をもっており、投げられるコインの物理的な運命について完全に予測できる。魔物によれば、人間はコイン投げについて十分な物理的知識がなく、正確な予測ができないために、その過程が確率的に見えるに過ぎない。魔物はコイン投げで生じるバイアス(非対称性)は決して見逃さない。コインを投げるときの物理的な状態のバイアスが何であるかを的確に知り、それがどのようなバイアスを結果するかを正確に予測できる。コインを投げて裏か表が出たということは、その結果にバイアスがあったということであり、それは原因であるコイン投げのどこかに最初からバイアスが潜んでいたためである。これは理屈の通った話である。というのも、この話は既に述べた対称性の原理の一例と考えることができるからである。対称性の原理を因果的決定論に適用すると、

結果に現れる非対称性は、原因がもつ非対称性によって引き起こされる、

と表現できる。この原理が成立している限り、魔物は原因のバイアスに注目することによって結果の裏、表というバイアスの予測を物理的な法則を使って行うことができる。
 以上のことから、魔物は物理的な状況に関して予測ができ、確率などに頼らなくても、個々のコイン投げを一回毎に正確に予測でき、したがって、すべてのコイン投げの系列について正確な予測を行うことができる。つまり、魔物にはコイン投げの過程は全く決定論的なのである。それゆえ、自然の過程に確率的なものは何ら含まれていないことになり、自然の過程に対して確率を使うことを主張・擁護するのは誤っていることになる。

神の物理学:力学的な決定論(2)
 この説明によれば、確率は私たち人間には不可避的に必要だが、それは私たちが十分な知識をもつことができないために過ぎない。これが確率の古典的な解釈である。私たちが確率概念を使う理由は私たちの無知のためであり、十分な知識をもっていれば確率などに頼る必要はない。これがラプラスの魔物の主張である。
 さらに現存する確率的な科学法則についても、それは現象的な法則であり、時間対称的な物理学の法則とは違って派生的なものに過ぎないと魔物は断言する。対象の変化を述べる現象的な法則は厳密な意味で法則ではない。そもそも確率が無知の反映であるから、それを使っての確率的な法則は法則と呼ぶに値しない。幽霊はどこにも存在しないが、考え出された多くの幽霊についての一般法則はつくろうとすればつくれる。統計法則はそのような類の法則であるというのが魔物の主張である。ちなみに、現象的と言われる法則にはエントロピー増大の法則やメンデルの遺伝法則がある。
 未来の予測のためには、ラプラスの魔物は初期状態を正確に測ることができ、完璧な計算ができなければならない。元来、決定論は実在の決定性を主張するものであり、私たちの認識とは何の関係もない。その決定論と予測可能性を同一視させる理由は古典力学の第2法則にある。第2法則と、微分方程式系の解が存在して、しかもその一意性を保証する定理とが結びつくことによって、系の初期条件が定まれば正確な予測が可能であることが数学的に証明できる。これによって現在の状態から演繹される未来や過去の状態が存在するということが保証される。さらに、この決定論は上の予測が実際に構成的に計算可能であるという定理によって強化される。ただ単に予測が可能というのではなく、実際に予測を計算できる。こうして古典的な決定論は予測可能性と同一視されることになる。そして、このような「決定論=予測可能性」という認識論的な決定論理解が、ラプラスが魔物に対して与えた役割なのである。
 どのような物体に対しても、その位置や運動量を正確に測定でき、そして運動方程式を解くことができるなら、普遍的決定論が成り立つというのが古典力学の主張である。そして、物理量の確定性、運動の連続性が成り立っていれば、決定論が導出される。だが、それは神にしかつくれない物理学である。私たちは神の物理学の骨組みを認めるが、そこに挿入される物理量の具体的な値については正確に知ることはできず、それゆえ、神になることができない。その結果、人間の物理学は近似的な物理学ということになる。とはいえ、それは十分に正確で、信頼できる物理学であり、実に有用であることを誰も疑わない。
*現在私たちは普遍的決定論が成り立つ神の力学が正しい物理学理論だとは思っていない。

 次回にタイトルの問いに解答したいが、三つの視点からの解答になるだろう。まず、因果性。次に、刹那滅の瞬間性、最後は物語の中の真偽。これらはいずれもとても興味深い視点である。それぞれの視点をかいつまんで挙げると次のようになる。

(1)形而上学的問題としての因果性はギリシャ時代以来論じられてきた、とても古い形而上学的問題である。論理的な「ならば」と因果的な「ならば」の比較を通じて、議論されてきたが、因果性は明瞭にはならず、それゆえ科学の領域では使うべきないことが一致した見解である。だから、科学理論は論理的な「ならば」を使って、数学的に因果的な「ならば」を表現してきた。では、因縁や縁起はどのように理解されたのか。
(2)刹那や瞬間もゼノンのパラドクス以来私たちを刺激し続けてきた概念である。刹那や瞬間は物理的な概念であるとともに、数学的概念でもある。特に、変化を理解する上では欠かせない概念となってきた。刹那や瞬間を心理的な直感として使ったのでは変化を理解できないのではないか。
(3)科学理論、物語、経典という異なる文脈の中での真偽は単純な真偽の対応説では不十分なことは自明であり、ある種の整合説がさらに求められる。運動変化の「ならば」だけでなく、系統的な進化や発生・発達といった様々な「ならば」をどのように一つの変化にまとめ上げるのかと言う課題に対し、真偽の全面的な心理化は答えになれるのか。

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