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2018年05月18日05:38

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「諸行無常」、「色即是空」はなぜ真なのか(補足)

 因果連関とその表現についての基本的な疑問について述べておきたい。

(1)因果関係を条件法(conditional)と関数関係を使って表現する
 私たちは原因と結果の間の関係を因果関係(causal relation)と呼んできた。大抵は因果関係が実在的な関係で、この世界に在る物理的な関係だと考えられているが、それは直接知覚できる訳ではない。では、それを私たちはどのように表現してきたのだろうか。当然ながら、私たちが表現しようとして使うのは身振り手振りではなく、言葉である。「言葉をどのように使うと因果関係を正しく表現できるのか」という問いは、形而上学的な問いとしてはとても魅力的な問いだが、「因果関係とは何か」と並んで、その解決がとても難しい問いでもある。だから、科学革命に関わった私たちの先輩はその解答を避け、正確な因果関係の表現を自然言語ではなく、数学に委ねたのである。言葉としての数学は因果関係を関数関係として表現することに見事に成功した。だが、どの因果関係も関数関係として表現できるかどうかは未だに誰にもわからない。
 「Aならば、Bである(if A, then B.)」の「ならば」は上記の因果関係を表現する常套手段になってきた。この場合はAが原因、Bが結果と解釈されるのだが、実際は条件法の「ならば」である。さらに、AとBの関係が上記のように関数関係として、例えばB = f(A)のように関数関係として表現できるなら、正に御の字ということになる。関数関係として表現でき、推論の中で使うことができると、論理的な「ならば」を駆使しながら、因果関係を間接的に表現することができるようになる。つまり、関数関係として表現し、推論の中で使うことによって、因果的関係を間接的に表現するのである。

(2)行為の同定、INUS条件、意図的な行為について
 同じ行為でも、ある側面は意図的だが別の側面は意図的でないということがある。例えば、公園を歩いていて虫を踏みつぶした場合、「公園を歩く」ことは意図していたとしても、「虫を踏みつぶす」ことは意図していなかった場合である。だから、意図の存在を問題にする際、行為のどの側面を問題にするのかを特定しておく必要がある。
 行為は低次(具体的な運動)から高次(抽象的な意味)まで様々なレベルで同定できる。たとえば、同じ行為でも比較的高次で同定すれば「歩く」、低次で同定すれば「左右の足を交互に踏み出す」となり、一方は意図的だが、他方は意図的でないことが可能である。
 また、行為とその結果を混同しないことが重要である。厳密には、行動の記述には行動の結果まで含めてはいけない。例えば、森を歩くという行為には、家に到着するという結果は含まれない。しかし、行為の高次同定には結果が含まれていることが多い。「森を歩く」という行為をさらに高次で同定すれば「知人の家を訪ねる」となり、家に到着することまでが含まれてしまう。
 因果関係における原因と結果は釣り合っていなければならない。意図と行為が因果関係で結ばれるためには、意図は結果を生じさせるための過不足のない必要条件でなければならない。
 行為を生じさせるためにちょうど釣り合った意図などあるのだろうか。Mackie(1974)は、因果関係のINUS条件を提案している。ある原因Cは、結果Eの発生に「不十分だが必要」(insufficient but necessary)な条件だといえる。Eの発生には、「必要ではないが十分」(unnecessary but sufficient)な条件のセットが関与しており、Cはそのセットの一部、すなわちINUS(insufficient but necessary part of unnecessary but sufficient set of conditions)なのである。例えば、「火災(E)の原因(C)は漏電だった」という場合、漏電(C)はそれだけでは火災(E)を生じさせるのには不十分(I)だが、火災を生じさせるのに必要ではないが十分な条件セット(U but S、可燃材料や酸素の存在、そして漏電)の一部だったという意味だ。これらの条件セットは、火災を生じさせるための必要条件ではないが(漏電ではなく煙草の消し忘れでも火災は生じる)、火災を生じさせるのには十分ではある。つまり、C(漏電)は、条件つきの(この条件セットに対してのみ有効な)必要条件だといえる。漏電がなかったら、この条件セットからの火災はなかった。しかし、漏電(C)がなくても火災(E)に通じる、他の条件セットは存在するかもしれない。条件セット内のC以外の条件をXとするならば、CXはEの十分条件セットの一つであり、Cを必要としない他の十分条件セットもあり得るということだ。
 いささか複雑だが、意図的な行為の厳密な定義は「意図がINUS条件的な行為」なのである。行為を生じさせた十分条件セットの中に、意図が必要条件として含まれていれば、それは意図的な行為だったと言える。もちろん意図だけでは行為を生じさせるのに十分な条件ではないが、その他に必要とされる多くの背景条件(たとえば、意図的に視覚刺激を処理するためには、部屋の明かりがついている、刺激が視野に入っている、参加者が盲目ではないことなど)は当然揃っているものと仮定される。ただし、意図を必要としない十分条件セットも存在するので、ある条件では意図的な行為でも、別の条件では意図的ではないこともある。このように、意図が必要条件かどうかの決め手となる背景条件の特定も、意図性の問題を扱う上では重要となる。
 このように、行為(のある側面)が意図的となるのは、その行為に従事しようとする目標表象(意図表象)が原因(INUS条件)となって、その行為が生じた場合だと言うことができる。
 心理過程のどのレベルが因果的に行為を生じさせる力を持つか(あるいは持たないか)は、哲学者たちが盛んに論じている問題でもある。原因と結果は同じ分析レベルに位置し、原因は結果に先行している必要がある。また、原因はINUS条件を満たし、過不足なく結果を生じさせる必要がある。

 (1)のような物理世界の因果的な出来事だけを扱う場合に比べ、(2)のような意図的な行為の因果関係となると、その厄介さがまるで異なることがわかる。意図や思惑が含まれる因果連関が当然ながら因縁や縁起に含まれていて、私たちの先輩も当然それを熟知していた筈だが、上記のような分析((1)と(2))が『中論』や『俱舎論』でどれだけ行われているのか素人の私にはうまく読み取れないのである。


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