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2018年04月02日23:06

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大和ミュージアムの大和がオモテを陸地、トモを海にしている理由(下書き)

https://mobile.twitter.com/zukkino_gh/status/978836005984743424
を見て, #今思いついた大和ミュージアムの大和がオモテを陸地、トモを海にしている理由.

 少々古い話になる.
 壇ノ浦合戦の後,平家残党は散り散りになって各地に落ちのびたのだが,その中に,平通盛ゆかりの武将・呉龍傅(くれ・たつもり)の一党がいた.
 龍傅(たつもり)一党は安芸郡の海沿いのとある寒村に,やっとの思いで辿り着いたが,源氏の追手がかかることは目に見えていた.
 龍傅(たつもり)の家来は,源氏勢の姿が見えたらすぐに逃げ出せるようにと,小舟の舳先を海に向けて浜辺に止めようとした.
 すると龍傅(たつもり)は言った.
「小舟の向きを逆にせよ.
 すぐに逃げ出せるような姿勢を見せては,かえって怪しまれよう」

 果たして,オモテを海にして小舟を留めていた他の平家の落ち武者たちは,たちまち見破られて次々と討たれたが,龍傅(たつもり)の舟を沖合から見つけた源氏武者たちは,その舟が逃げ出す用意がなさそうなことから,平家の落ち武者はここにはいないと思い込んだ.
 それでも,彼らは梶原景時から村々をくまなく当たるよう命じられていたので,形ばかりの探索をすることになり,寒村へ漕ぎ寄せた.
 ところが,無警戒の彼らの舟に,不意に村のほうから次々と石つぶてが飛んできて,たちまち負傷者続出し,海に落ちて溺れる者も数知れず.
 源氏の追手は慌てて逃げ出し,その隙に龍傅(たつもり)一党は悠々と舟を出して,九州へと落ちのびていった.

 以来,この地方では縁起を担いで,陸揚げした船のオモテを陸地にするようになった.
 事実,陶晴賢が厳島合戦で毛利元就勢に大敗したのも,一説にはこの伝承を馬鹿にして縁起を担がなかったためであるとされる.

 そしてこの寒村は呉龍傅(くれ・たつもり)の名にちなみ,呉と呼ばれるようになった.
 ちなみに,呉龍傅が石つぶての達人であったことは,彼の名が「ご・りゅうふ」とも読み,古代中国の拳法家,呉竜府の子孫であることからも明らかである.
 靖康の変によって日本に亡命してきた宋の武将だったのではないかと考えられている.
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