思い返せばいつも大概何かしらを「疎ましい」と感じながら生きてきた。
大概は俺に対して強い関心を示す人達に対してだ。
表面的な愛想笑いを貼り付けて礼の言葉などを述べながら、心の中では「もういいから放っておいてくれ。煩わしい」みたいに常々感じながら生きてきた。
だけどそれらの大半は、つい煩わしいと感じちゃう程度には熱量を伴う関心の現れだったのだと、ふとある時に気付いた。
つまりは、オカンのお節介すぎる愛情みたいなものだ。
盛大に気にかけてもらうほど、逆に鬱陶しい、もうやめてくれと感じてしまう。
ただの天邪鬼。ただの物臭。
この世に「余計なお節介」が存在しなかったら、誰かを疎ましいと思える程度の体温すらない、本当にただただひたすらに冷たいだけの世界になってしまうんじゃないかと思う。
そして、そういう絶対零度気味な世界の住人というのもこれまで何度か目にしてきた。
彼らの姿は、ポールシフトやなんかが起こって生命が完全に滅亡した後の地球の有り様を連想させる。
俺はとにかく物臭で、基本的に常に自分の事しか考えてない、自分の世界観の中だけで完結して生きてるような人間だから、オカンに対しても、それ以外の俺に関心を傾けてくれる人達に対しても、恋人がいた時なんかは恋人に対してでさえ、わりとナチュラルに「煩わしい。いちいち返事を返すのも億劫だ。もう放っておいてくれ」みたいに常日頃思っちゃう系の人間。
でもそう思える事がどれだけ恵まれた事なのかってのも常々感じてる。
本当に有り難いことだと思う。
物臭な上にわりと重度のADHDで、何かに意識が集中すると本当にそれ一つしか見えなくなって、それ以外が完全に意識から抜け落ちちゃう人間だから、なんかもう申し訳ないくらい人付き合いとかこういう場のやりとか大雑把すぎでアレなんだけど、でもまあとにかく有り難いことだと思う。
人生がいつ何処で終わるのであれ、願わくば最後まで何かに煩わされてる人生で有って欲しいと思う。
そしてそれを実現する為には、今よりもう少し俺は人に優しく、寛容になるべきなんだろうなと思う。
面倒くさい事を面倒臭がらずに。
なんとなく漠然と無理解だった多くの事柄に対しても、理解の試み程度の努力は極力するようにして。
まあ、そうは言ってもやっぱり明日になればまた色々面倒臭がっちゃうんだろうし、メールの返事とか3歩あるけばマジで余裕で完全忘却なわけだけども。
せめて気持ちだけは、かく或らんと思うわけなのだ。
煩わしてくれる人間が、まだ多少なりとも残存してくれてる事に日々感謝しつつ。
え?
むしろ花田さんが一番煩わしい??
・・・・・それな`〜`
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