mixiユーザー(id:78391)

2018年02月07日00:04

784 view

 【質問】 金丸(かなまる)って誰?(下書き)

 【質問 kérdés】
 金丸(かなまる)って誰?
Ki az Kanamaru?

 【回答 válasz】
 1415年,沖縄本島北西部,伊是名島の諸見村の農民夫婦の長男として生まれる.
 父親の名は尚稷(しょうしょく),母親は瑞雲と言った.
 水上偵察機とは関係ない.
1415-ben született, mint a farmer pár legidősebb fia, Okinawától északnyugatra Izena sziget, Moromi faluban.
Az apja Sousoku volt, és az anyja Zuiun volt.
A felderítő hidroplán nincs kapcsolatban volt.

 若い頃は「北(ニシ)の松金」と呼ばれていたという.
 金丸が数え年で20歳(1434年)の時,両親死去.
 伝承によれば,
「旱魃にもかかわらず金丸の田だけ水が枯れなかった」
として,村人たちから盗水の嫌疑をかけられるようになったため,1438年,妻と弟を連れて沖縄本島の国頭村へ逃亡したという.
1434-ben huszonöt éves korában meghalt a szülei.

------------
 ある年,大旱魃が島を襲った.
 下の方の田はみな水が干上がってしまったのに,上の方にある松金の田だけはいつも水を満々とたたえていた.
 下の田の主たちは,これはきっと松金が水を盗んでいるに違いないと考え,ある晩,松金の田の畦を切って下の田に水が流れるようにしておいた.
 こうしておけば,松金の田は一晩のうちに水が無くなって仕舞う.
 と,翌朝,田を見廻りに行くと,松金の田はカラカラどころか,前の日と変わりなく満々と水をたゝえている.
 そして水が一ぱいある筈の下の田は逆にカラカラ.
 さては水が逆さに流れたのか,というわけで松金の田にサカ田の名がつき,附近の地名ともなって,今現在でも,水は涸れることはない.

 しかし,村の青年たちは松金が夜の中に水を汲み上げているに違いないと,盗み水の罪を被せ殺害しようとした.
 その実,盗み水の罪は表向きで常日ごろ,
『百シジのハンタうさんしち見りば,北(ニシ)ぬ松金が手振り美らさ』
と娘たちにモテるのを妬んでいた青年たちは,この機会に松金を亡き者にしようと図ったものらしい.
 身の危険を察した松金は,人目をさけて大山の山中にかくれた.
 松金はこの山がくれの間いろいろ考えた末,
『自分は盗み水をした覚えはないが,この小島に一生を送るべきではない.
 この機会にもっと広い沖縄本島に渡ろう』と決心した.

 この時松金は24歳になっていたが,妻と弟(後の尚宜威)を連れて国頭の宜名真村に逃れていった.
 やっと諸見を抜け出したものの,この夜は一寸先も見えない真暗闇で手さぐりで先へ進んでいた.
 すると不思議なことに何処からともなく一条の光りがさし,行く手を明るく照らしたので難なく浜辺に出ることができた.
 島では今でもこの場所を「明し原」と呼び,舟出した浜を「ウシュフンチャ(御主加那志が踏んだ土地)」と呼んでいる.
------------
 「逆田」の正体は井戸だったらしい.
 沖縄では高い場所でも海に囲まれているせいか毛細管の現象で高い場所にわき水が上がる所が有る.
 又,石灰岩は保水性が高いので,高い場所にも井戸が存在するという.

 ただしこの伝説は,尚巴志王の祖父・佐銘川大主(さめかわおおぬし)の伝説との類似が指摘されており,それをなぞった後世の創作との説もある.

 しかし,金丸一家は余所者ということで,国頭村には受け入れられず,1441年,久志などを経て首里へ.
 同地で金丸は,当時王叔だった越来王子(後の尚泰久王)に見い出され,その家臣となった.
 当初は最下級の役人であったが,金丸は直ちに頭角を表し,1452年,38歳の時に高官に抜擢さる.
 その後,尚泰久が即位すると,1454年,西原間切の内間領主に任命さる.
 金丸はその後も順調に出世.
 1459年,御物城御鎖側官(貿易長官)就任.
 この職は同時に王への取次職でもあり,王への上申は金丸を経由する必要があることを意味した.

 1460年,尚泰久王が薨去し,世子・尚徳が即位.
 正史では尚徳王は悪政を行い,金丸が諫めることもしばしばであったとされている.
 1468年8月,金丸はついに内間村に隠遁.

 1469年4月,尚徳王薨去.
 尚徳王には世子があったが,同年7月,クーデターが発生.
 金丸は隠遁先から首里に迎えられ即位し,尚円と名乗った.
 クーデターに金丸自身が積極的・主体的に関与していたか否かは定かではない.
 即位に当たり「尚氏」を名乗ったのは,当時の琉球経済は明との朝貢貿易により成り立っており,王統の継続を装う必要があったからと考えられる.

 即位後,彼は天王寺・龍福寺・崇元寺を建立.
 また,中国との朝貢貿易の進貢間隔を二年一貢とするなどしたという.

 王即位後の善政エピソードが出てこないところを見ると,王としての実権がさして無いように想像される.
 ということは,クーデター後に担ぎ出された,お飾りの王様と見るのが正解かな?

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://vill.izena.okinawa.jp/izena/novel/story5
http://ritohaku.okinawastory.jp/15islands/2586/
http://art.jcc-okinawa.net/rekishi/kanamaru/ ※図1引用元
https://kotobank.jp/word/尚円
http://www.tre-navi.jp/toretate/?p=32434 ※図2引用元
http://ryukyu.town-nets.jp/intro24.html
http://www.yanbaru-oki.jp/e_town_html/rekisi/rekisi05.html
https://ameblo.jp/ikesiro/entry-12292527578.html
http://www.city.nago.okinawa.jp/1/336.html

図1:金丸時代の肖像画(後世の創作)

図2:伊是名島のマスコット・キャラクター「尚円王」



1 1

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2018年02月>
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728