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2017年08月14日08:11

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『復活祭のころ』恒籐恭

 初日に芥川龍之介の『支那游記』を拾い、二日目に竹岡さんで芥川ゆかりの恒籐恭の本を見つけました。
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 『復活祭のころ』恒藤恭(昭和二十三年五月十日朝日新聞社)。恒籐には『旧友芥川龍之介』という本があって、たぶん持っていると思うのですが、たしか一高の成績では、芥川が二番で恒籐が一番、でしたっけ。
この本の連作「窓紗(まどかけ)」にも「芥川父子の京見物」という文章が入っています。≪いはゆる江戸つ子の出不精とやらで、六十幾つかの齢になつても、西は箱根を越したことがなく、東は名高い日光も未だ知らない阿父さんをつれて、友人芥川がことし四月の中旬に京見物にやつて来た。≫時に嵯峨野、嵐山で遊んだことを書いています。
そして、その次の文が「大文字の夜」で、
≪八月十六日の夕方のことである。私は夕飯をすませてから暫くして家を出た。日はすでに落ちたが、なほ暮れない西の空に金星が光っていた。
 葵橋をわたりながら川上をながめると、堤の松の並木は夕ぎりに浸つて濃くうすく浮かび、蓬々と茂る河原のくさむらの中を水が一すぢの白い曲線をゑがいて流れてゐた。私は橋をわたつて十間ばかし川下の岸に立つてゐる古い柳の木の下に来てしゃがんだ。≫
 とありますから、筆者はどうも下鴨のあたりに住んでいたようなので、すこし繰ってみますと、東京から引っ越してきたのが「糺の森」にのぞんだ小さな二階家だったようです。また、
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 「ただすの森」のスケッチも入っていました。糺の森でこの本を見つけるとは!です。そして、「窓紗」の最後に「一九一七年夏」とあってさらに吃驚。ちょうど百年前に書かれた文章だったのでした。
 気になってウィキを見ましたら、≪島根県立第一中学校(後の松江北高等学校)時代から雑誌に随筆、短歌、俳句などの投稿をはじめる。「消化不良症」で体調が悪化し、中学卒業後3年間の療養生活を送る。療養中、小説「海の花」で『都新聞』(東京新聞の前身の一つ)の懸賞一等に当選し350円の懸賞金を得、「井川天籟」の筆名で『都新聞』に連載された。≫とあり、投稿少年だったこと、≪恭は一高時代も投稿を続け原稿料を稼いだ。少年雑誌『中学世界』には大学院時代まで「鈴かけ次郎」の筆名で投稿を続けている。≫とも。しかし、≪1913年、一高第一部乙類を首席で卒業、京都帝国大学法科大学政治学科に入学。恭は文科から法科への進路変更について、芥川との交流で自身の能力の限界を知ったとのちに述べている。≫そうです。
 この本には謹呈の署名が入っており、その相手は挟まっていた葉書の主でしょうか。
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